フェルケール博物館において『 蘭字 Ranji 輸出用茶箱絵の世界 』開催中です。9月6日(日)まで。

江戸時代末期、幕府は日米通商修好条約を結び、横浜港が開かれた安政6年(1859)にお茶は180tが輸出され、生糸に次ぐ明治時代日本の重要輸出産品となりました。                                               

 

明治に入ると、静岡県内では川根、本山など山間の産地に加え、旧幕臣たちも加わり、牧之原、富士などにも茶園が拓かれ、生産量を飛躍的に伸ばしていました。このお茶の多くが輸出に向けられるのですが、当初は再製(仕上げ)を含め、外国商社にそのほとんどが委ねられていました。旧静岡市、茶町周辺には直輸出を見越し商社や再製茶工場が集積し、産地で良いお茶を大量に用意できるようになりました。その後も清水港利用を船会社に働きかけ、明治39年(1906)、念願の直輸出が実現します。茶町周辺の製茶問屋街から清水港へのお茶の輸送量が増えると、牛がひく荷車では追いつかなくなりました。清水港へ茶を輸送する目的で1908年(明治41年) 新静岡と清水港をつなぐ軽便鉄道が開通します。明治43年(1910)清水港のお茶輸出量は横浜を上回って日本一になりました。

横浜や神戸にあった外国商社も続々と静岡市に集まり、競うように再製工場を構えたのです。また、輸出用の茶袋、茶箱、茶缶などをつくる茶関連業者や、製茶機械のメーカーなども茶貿易とともに発展していきます。茶町周辺の製茶問屋街から茶関連業者は周辺の安西、北番町へと広がっていきました。当時の輸出用茶箱には「茶箱絵」と呼ばれた浮世絵の絵師による木版画が貼られていました。

 

『蘭字 Ranji 輸出用茶箱絵の世界』では、木版、オフセット印刷の蘭字、輸出用茶箱、戦後の蘭字の制作過程がわかる資料を紹介します。詳しくはチラシ、フェルケール博物館HPをご覧ください。

 

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