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『駿府九十六ヶ町』町名碑、新たに本通、安西、安倍町、車町の4ヶ所に設置されました。

 

家康公は慶長10年(1605)、将軍職をわずか2年で秀忠に譲り大御所となりました。翌年駿府に隠居する旨を宣言し、駿府城主内藤信成を長浜に移し、慶長12年(1607)から駿府城の改修と駿府の町づくりに着手しました。駿府城の修復は全国の大名に普請(土木工事)を命令する天下普請により行われ、京都、伏見などから大工、鍛冶屋、車屋、左官などの技術集団も呼び寄せられました。町は、武士、商人、職人、農民等の職業によって住む場所が分かれていました。町人地は、駿府城の南側 (呉服町・七間町・両替町方面)に開け、整然と碁盤の目状に区画割された町でした。町づくりは慶長14年(1609)ごろにはほぼ完成し、「駿府九十六ヶ町」が成立したと言われています。

 

家康公が原点を築いた「駿府九十六ヶ町」の各所在地に町名碑を設置することを通して、現在にもつながる町名の由来を知り、地域の歴史に触れる機会を身近なものとして提供することを目的に、静岡市は令和元年度までに38基の町名碑設置を完了しています。(「●丁目から●丁目」の町名は統合し設置数は49か所となります。)

令和3年3月、新たに本通、安西、安倍町、車町の4か所に町名碑が設置され合計42基となりました。令和4年度まであと7基となりました。

 

新たに設置された町名碑

 

 

本 通 (本通と両替町交差点の東、印章店前)

古くから東海道の往還として栄えた駿府城の南西に位置する町です。慶長14年(1609)の駿府城下の整備に伴い、新たに新通り東海道往還となり、それに対して「モトトホリ」(=元通)と呼ばれたことが町名の由縁となっていますが、いつから本通の呼称となったかは定かではありません。江戸時代は1丁目から9丁目が駿府96ヶ町に数えられていました。本通1丁目は豪商が軒を連ねた商人街として栄えました。元禄年間には豪商として活躍した松木新左衛門が、宝暦年間には海運関係に携わった青茶屋善兵衛が居住していました。天和3年(1683)には茶町2丁目からの出火により、町内の53軒を焼失するという火災被害に遭いました。

 

 

 

 

安 西 町 (安西通りと安倍街道交差点の西、すき屋前)

古代の安倍市の西側にあたることや安倍町の西にあることなどから「安西」と称されていたようです。安西は1~5丁目まであり、1丁目は最も東に位置します。寛永年間(1624~1644)の記録によると、特に安西1、2丁目は「本安西町」と言われていたようです。安西1丁目は材木町に近く、木挽、大工、桶、指し物など木工関係の職人が多く住む町で、元禄5年(1692)の「町数等覚書」では44戸、304人が住んでいたとされています。また、元治元年(1864)の第1次長州征伐の際は、材木屋源兵衛ら1丁目の商人たちが、合わせて350両を献納したと伝えられています。

 

 

 

 

安 倍 町 (安西通と安倍街道交差点の北、佐藤酒店前)

静岡浅間神社の南西、安倍川上流域や井川方面に通じる街道どうの起点に位置する町です。町名は、徳川家康に仕え数々の武勲を立てた安倍大蔵元真の居宅があったことに由来するとも、古くからこの辺りが「安倍郡」の中心であったからとも伝えられています。

「駿河記」によると、安倍郡の中心にあった「安倍市」は平城京遷都(710年)と同じ頃に開設されたと考えられています。駿河の国の産物や中央都市からの様々な品物が交換・売買された安倍市は、物資交流の中心地として繁栄しました。元禄5年(1692)の「町数等覚書」では、34戸、241人が住んでいたとされます。

 

 

 

 

 

 

車 町 (安倍街道と車町の通りの交差点の西側の北)

慶長年間(1593~1615)、徳川家康が駿府城築城の際、資材運搬のため、京都鳥羽伏見から牛車運送人(牛使い)を住まわせたのが町名の由来と言われています。「駿国雑志」には、清水港からの物資を府中まで運搬するために牛車を必要とした記録があり、これら牛車や荷車の運航は、茶の輸出などにも大切な役割を果たしたとされています。その後、運搬人たちは安西5丁目に移り、変わって駿府城増設を担うとび職、左官、大工、建具職人などが住むようになりました。元禄5年(1692)には35戸、227人が住んでいたとされます。町内にある「奥津彦神社」には奥津彦命(=竈の神)を祀り、もとは室町時代の初め、今川氏の屋敷内にあったといわれ、地元では「お荒神さん」として親しまれています。

 

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