観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

1月20日(木)郷土史家・渡邊康弘氏をお招きし「東海道薩埵峠と朝鮮通信使」の講演会を開催しました。 

1月20日(木)、静岡市葵区呉服町札の辻クロスにおきまして「東海道薩埵峠と朝鮮通信使」と題して、渡邊康弘氏の講演会を駿府ウェイブ会員を対象に開催しました。

講演会は2月23日(富士山の日)に企画を予定しているお客様をご案内させていただく「東海道・薩埵峠を歩こう!」の事前研修のため開催しました。コロナ禍の影響もあり参加者は47名でしたが、皆熱心に耳を傾けていました。

 

 

 

郷土史家として幅広くご活躍中の渡邊康弘氏の講話は、

 

① 東海道薩埵峠の歴史環境を伝雪舟の「富士三保清見寺図」、「駿州清見興国禅寺眺望の景」、歌川広重の「東海道五十三次・由比」の絵画を示され、生活と観光のための薩埵峠として古代から重要な道であり、その景観は多くの絵画に描かれており、また海岸沿いの道(現在の国道1号線、JR東海道線)は「親知らず子知らず」の古代から東海道の難所としての道であったため、通行不能となる恐れもあるため、甲州への塩と海産物の道=浜石道の尾根道の鞍部を通るいくつかの間道(バイパス)が設けられていた。

 

② 薩埵峠周辺の山塊は海岸に面しており、攻め難く、防御しやすい地形を形成しており、足利尊氏と直義兄弟の戦い(観応の擾乱1350年)と武田氏×後北条氏の興津川合戦(1569年)の2度の大きな戦い舞台となっており、今川家の駿河支配の始まりと終わりの始まりの舞台が薩埵峠周辺となった地点でもあった。

 

③ 薩埵峠には古代からの東海道=下道、中世以前の峠道=(間道・バイパス)地蔵道、朝鮮通信使に薩埵峠からの富士山、駿河湾、伊豆半島、三保半島の景観を鑑賞して欲しかったために開鑿された明暦元年(1655)の中道、天和2年(1682)開鑿された上道があり、海岸沿いの下道は東海道の難所であり、薩埵峠越えの中道、上道は安全な通行を考えての作られたバイパス的な道交通上の問題だけでなく、そこが富士山の絶景ポイントであり、朝鮮通信使にも富士山を鑑賞していただきたかったという「景観」的な価値を付加していたのではとの見解を述べられました。

 

2月23日(富士山の日)に企画を予定しているお客様をご案内させていただく「東海道・薩埵峠を歩こう!」(チラシをご参照ください)は5年ぶりの開催となりますので、駿府ウエイブの会員にとっても久しぶりのガイドとなります。今回の講演会ののち、1月28日(金)のガイド研修会、2月4日(金)の現地でのフィールドワークとガイド研修を重ね2月23日(富士山の日)に万全のガイドができるよう準備をしてまいります。

 

まん延防止等重点措置期間の直後の『東海道薩埵峠を歩こう!』は、中止させていただきます。