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11月3日(金)から、家康公と信長・秀吉・信玄・徳川四天王ゆかりの名宝が静岡市美術館にやってくる。 

 

 

竹千代時代から豊臣大名時代、大御所時代までの姿を浮き彫りに『 NHK大河ドラマ特別展 どうする家康 』。

静岡市美術館にて11月3日(金・祝)から12月13日(水)開催。

 

 

 

戦国乱世を駆け抜け、世界史上類を見ない260年の泰平の世の礎を築いた徳川家康公。

 

 

 

大河ドラマ「どうする家康」と連動し、家康公の生涯において重要なターニングポイントとなった出来事を、

全国の博物館及び25年暮らした静岡の神社仏閣などから、厳選した国宝・重要文化財はじめとした、

約110 点余りの作品をとおして紐解く、過去に例を見ない展覧会です。

 

信長・秀吉・信玄・徳川四天王など、様々な形で家康公に影響を与えた戦国武将のメイン・キャストたちに

まつわる名宝や、同時代の歴史資料も交え、家康公が迫られた決断や、竹千代時代から豊臣大名時代、

大御所時代までの真の姿を浮き彫りにしていきます。

 

 

 「どうする」に満ちた家康公の生涯。大河ドラマとは違った角度からご覧いただけます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展示品のほんの一部をご紹介します

 

竹千代時代 紅糸威腹巻 (静岡県指定文化財)静岡浅間神社

少年時代を駿府で過ごした家康公が、天文23年(1554)元服式で今川義元から贈られた着初めの腹巻と伝わります。

天保14年(1843)成立の『駿国雑志』によれば、家康公が晩年に浅間社流鏑馬祭礼を上覧した折、村岡兵部少輔に与えたといわれています。

室町時代末期の小ぶりな儀式用の鎧です。

 

豊臣大名時代 朱塗黒糸威二枚胴具足 桃山時代 16世紀(山形県指定文化財)致道博物館

徳川四天王の一人、酒井忠次所用の朱塗りの甲冑。ひときわ目を引くのが椎実形の十二間筋兜に金箔を押した木製の大鹿角の脇立です。

酒井家の家紋である酢漿草紋(かたばみもん)が随所に見られ、吹返しには透彫、胸板や手甲には金具が据えられています。

 

竹千代(徳川家康公)と名乗った少年時代に今川義元から贈られた着初めの腹巻と伝わります。

酒井家初代酒井忠次は竹千代が駿府に赴く時、竹千代の家臣として駿府に同行していました。着染めのお手伝いをしたかもしれませんね。

 

 

 

豊臣大名時代 太刀 銘長船住人長光 鎌倉時代・13世紀(重要文化財)静岡浅間神社

社伝によれば、小牧長久手の戦いの和睦の印として家康公が豊臣秀吉から贈られ、晩年、大歳御祖神社に奉納したと伝えられる太刀。

五三の桐(豊臣家の家紋)の金蒔絵が施された糸巻太刀拵が付属する。鎌倉時代中期から室町時代にかけて我が国随一の生産量を誇った

備前長船派の祖・光忠の子と伝わる名工長光の典型的な作風を示しています。

 

 

豊臣大名時代  国宝 太刀 銘信房作 平安時代 12世紀 致道博物館

家康公が織田信雄と共に羽柴秀吉と戦った小牧長久手の戦いで、戦功をあげた酒井忠次が家康公から拝領した太刀。

信房を名乗る刀工は平安時代後期の古備前と鎌倉時代初期に存在したというが、本作は作風から古備前物とみられる。

 

静岡浅間神社に伝わる太刀は秀吉公が天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い和睦の印として家康公に贈り、

その後家康公が大御所として駿府に滞在する折りに大歳御祖神社に奉納した太刀です。

一方の致道博物館に伝わる太刀は、酒井忠次が小牧長久手の戦いで戦功をあげ家康公から授けられたものです。

忠次は禄3年(1560年)桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、家康公の四天王の筆頭として仕えました。

現在家康公が眠る久能山東照宮の神廟には、孫、酒井忠勝が奉納した燈籠が、家臣団の中で唯一建てられていますよ。

 

 

 

天下人への道 歯朶具足(伊予札黒糸威胴丸具足) 岩井与左衛門作 (重要文化財) 桃山~江戸時代 16~17世紀 久能山東照宮

家康公が関ヶ原の合戦で着用し、大阪の陣でも身近に置いたといわれています。

大黒頭巾形の甲冑で革製の歯朶の前立が添っているところから歯朶具足と呼ばれます。

歯朶の前立ては甲冑には取りつけることができない形態となっています。

3代将軍・家光はこの甲冑を久能山から江戸城に運び、将軍家の武器筆頭に位置づけました。

4代将軍・家綱は写しを作り、歴代将軍は吉祥の鎧として、正月の具足の祝いで床に飾り尊んできました。

 

 

大御所時代 朝鮮版 和剤局方(6冊・内2冊)朝鮮時代・16世紀 久能山東照宮

中国で12世紀に編纂された薬剤の処方集をもとに朝鮮で銅活字を用いて出版された書籍です。

宇喜多秀家が朝鮮の役(1592~1593、1597~1598)で持ち帰り、それが秀忠に献じられ、秀忠から家康に贈られたといわれています。

健康オタクともいえるほど養生に気を使っていた家康公は、この本で良薬を調合して家臣にも与えたといわれています。

 

大御所時代 駿河版銅活字慶長11~元和2年(1606~1616)(重要文化財)東京・凸版印刷株式会社 印刷博物館

駿府に隠退した家康公は、以心崇伝と林羅山に命じて銅活字を用いた出版に着手し、その駿河版の刊行は、わが国初の金属製活字による一大事業でした。

銅活字は総数十万箇以上が鋳造されたと推定され、その後火災で失われたものも少なくなく、鋳銅製の大字・小字のほか罫線、輪郭、摺板も残存しています。

 

「朝鮮版 和財局方」は、中国で12世紀に皇帝の命で編纂された薬剤の処方集で元時代の増補版をもとに朝鮮の銅活字で出版されました。

家康公はこの「朝鮮版 和財局方」を読み、良薬を調合して諸臣にも下賜したといわれ、銅活字で印刷された書籍の文字の繊細さにも注目し

「駿河版銅活字」の鋳造を決意したとも考えられますね。ここにも家康の科学的な資質がうかがえます。 

 

 

大御所時代駿河版『群書治要』(全47冊・内3~4冊)元和2年(1616)画像:印刷博物館 展示:静岡県立中央図書館

駿河版の第2号。『群書治要』は、唐時代に太宗の勅命により魏徴(ぎちょう)らが編纂した政治参考書で、家康公も治世の参考にしたのでしょう。

元和2年(1616)2月から駿府城三の丸でわずか4か月という短期間で制作が進められましたが、家康公は完成を見ることなく世を去りました。

 

駿河版はわが国古活字版の一つで、慶長12年(1607)に徳川家康が静岡の駿府城に隠居してから、林羅山らに命じ、

朝鮮伝来の銅活字にならって新鋳した銅活字で『大蔵一覧』11巻、『群書治要』47巻などを刊行したといわれています。

『群書治要』は、『論語』『老子』『史記』『漢書』ほか60以上の文献から治世の参考となる語を抜粋したもので、貞観5年(631)の成立しました。

中国では早く失われ、のちにわが国から中国へ逆輸出されました。 

 

 

大御所時代 太刀 無銘 光世 切付銘 妙純伝持/ソハヤノツルギウツスナリ 鎌倉時代・13世紀(重要文化財)久能山東照宮

家康公は逝去の前日にこの刀で罪人の試し斬りを命じ、自らの死後は剣威により長く子孫を鎮護すると述べたといわれています。

また社伝によれば、大阪の陣後も不穏な動きのある西国に鋒を向けて立てて安置するように遺言したそうです。

久能山東照宮第一の重宝として伝来した家康公の愛刀です。

 

 

※ 作品により展示期間が異なります。美術館HPでご確認ください。

 

 

静岡市美術館HP

 

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