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蒲 原 宿

一九は膝栗毛の中で喜多さんは、本陣に忍び込み大名の一行と思わせ、夕飯にありつき、
弥次さんへのお土産まで手に入れています。

 

 

広重は、蒲原宿を、東海道五十三次の中で僅か2枚の雪景色の内の1枚である「蒲原夜之雪」として印象的に描いています。

 

 

蒲原 夜之雪

温暖な土地柄である蒲原にしんしんと雪が降り積もり一面の銀世界となった夜の情景を描き、広重が作り出した虚構の世界と考えられている。夜の静寂を感じさせるモノクロームの世界で、傘・菅笠・蓑を身に着けた村人3人がさくさくと雪を踏みしめて家路を急ぐように歩く。庄野の白雨と並んで保永堂版の最高傑作である。

 

 

古地図で巡る駿州の旅【蒲原宿編】はこちら。

 

江戸時代の蒲原宿の様子

 

品川から数えて15番目の宿場町です。戸数509軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒、人口2,480人、宿の町並み長さ約1.600メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》の中規模の宿場でした。 多くの宿場が人馬継立と農業に専念する中、甲州年貢の江戸廻米業務や、駿河湾での漁業に携わる人が多く、土地を所有せずとも農作を行わない人のため、米屋が複数存在していたという特徴がある宿場でした。産物は海魚、食塩、魚油、藍、サメなど、農間余業は、男は鯛・鰹。鰺などの漁猟、縄・わらじ作り、女は機織り。

又蒲原宿は人口の少ない隣宿・由比の肩代わりをされることも多く、西へは由比宿を越え興津宿までの継立を余儀なくされることもあり、伝馬範囲は吉原宿から興津宿までの広範囲にわたり、しかも薩埵峠という難所を抱え蒲原の人馬は疲弊されていたといわれています。

 

江戸時代を彷彿とさせる今の蒲原は