観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

由 比 宿

一九は膝栗毛の中で、由比宿に入り、名物のさとう餅、間の宿・倉沢ではサザエやアワビの名物攻めに遭遇します。

 

 

広重は、東海道五十三次の興津宿と由比宿の間にある峠で、東海道屈指の難所として知られた「薩埵峠」を描いています。現在も往時と同じ富士の絶景を眺めることが出来ます。

 

 

由井 薩埵嶺

由比宿と興津宿の間にある薩埵峠の切り立った崖から眺める富士山と駿河湾の絶景を描く。左上の崖には楽しく眺望を楽しむ旅人2人と、見慣れた景色に見向きもしない薪を背負った地元の杣人とを対象的に描く。広重は対角線構図を用い左下方の岩や崖からなる密な空間と、右上方の海と空からなる開放的な空間を対比させている。

 

 

古地図で巡る駿州の旅【由比宿+薩埵峠編】はこちら。

 

江戸時代の由比宿の様子

 

品川から数えて16番目の宿場町です。戸数160軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠32軒、人口713人、宿の町並み長さ約600メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》の小規模の宿場でした。蒲原宿、興津宿に比べて小規模な宿場であったことから東海道各宿に割り当てられた人馬数(100人、100疋)の調達が難しく、11ヶ村が加宿に指定され、また助郷村は20ヶ村に及びました。本陣は宿場の中央に位置し、約1,300坪の広大な敷地でした。今川家の家臣で油井城主であった由比助四郎光教の子孫が代々岩辺郷右衛門を襲名し、明治に至るまで勤めました。由比宿を過ぎると難所といわれた薩埵峠を越えなければならず、峠越えの準備をするために、小さいながらも由比宿は重要な宿場でした。産物は、白絹・麻布・海魚・磯苔・食塩など。農間余業は、男は往還日雇稼、女は木綿織。

 

薩 埵 

 

由比宿と興津宿の間の海岸に突き出た山塊を超える峠。地蔵信仰の隆盛に伴い、仏教用語である「菩提薩埵」に由来して、中世には「薩埵峠」と呼ばれ「親知らず子知らず」といわれた難所でした。この由来については、「海道記」にもあるように、絶壁の山下の海岸を打ち寄せる波の引く間をぬって足早に通り抜け、親も子のことを気に掛ける余裕もなく、子も親のことを気に掛けるひまもないことから」とも、「危険な断崖絶壁を通る、振り返ることもできない狭い道であったことから」とも、「追剥になった親が、我が子とは知らずに殺してしまった、という伝説から」とも言われ、諸説あります。江戸時代中期に、朝鮮通信使の通行のために尾根を通る道が開かれた。

 

江戸時代を彷彿とさせる今の由比と薩埵峠は