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「山岡鉄舟ゆかりの鉄舟寺を訪ねて久能寺観音道~久能街道を歩こう」実施報告

3月3日(土)、企画ウォーク「山岡鉄舟ゆかりの鉄舟寺を訪ねて
久能寺観音道~久能街道を歩こう」が開催されました。    鉄舟寺では、2月7日にご講演頂いた、静岡山岡鉄舟会事務局長の若杉昌敬さんと、事務局次長の原啓二さんに山岡鉄舟についてのガイドをして頂きました。
晴天無風の天気に恵まれて、106名の参加者が静岡鉄道狐ヶ崎駅に集合、11班に分かれて、9時から順次出発しました。
コースは①久能観音道道標 ②誓願寺 ③楞厳院 ④玉泉寺 ⑤船越堤公園 ⑥伊勢神明宮  ⑦大日如来堂 ⑧能満寺 ⑨八坂神社 ⑩言いなり地蔵 ⑪補陀落山鉄舟寺(昼食) ⑫稲荷神社 ⑬梅蔭禅寺  ⑭次郎長生家 ⑮壮士の墓 ⑯船宿末廣、という約6.5㎞でした。

久能寺観音道の道標
久能寺観音道の道標は、安永7年(1778)、妙音寺村(不二見地区)の若者が寄進して建立されたものです。
久能寺観音道は、道標から、有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺・久能寺(現・鉄舟寺)に通じる道のことです。

延命山誓願寺(せいがんじ)(有東坂)
開基は室町時代。本尊は願王地蔵菩薩。三保半島、富士山の眺めは素晴らしく、秋田の民謡「祝奉節」の一節に誓願寺が唄われています。
♪ 見上げて見れば 富士の山ナエー
見降ろせば誓願寺ナエー 三保の松原ナヨエー
この唄は、佐竹の殿様が秋田へお国替えの時、殿様の機嫌を直すためにつくられたと伝えられている。

補陀山楞厳院(ほださん りょうごんいん)(今泉)
弘治元年(1555)武蔵国から道白禅師が戦乱を避けて竜爪山の麓に庵を結んだ。その後、武田の家
臣で船奉行であった土屋豊前守貞綱が、道白禅師の徳に感銘し、現在地に寺を建て禅師を開山とした。最盛期に
は末寺13ケ寺を持つ大寺院であった。本堂は貞享5年(1668)の建立で、清水区内でも古い建物の一つです。

船越堤・船越堤公園(北矢部)
有度山東北麓一帯は田畑への水が少なく、溜池が多く造られた。代表的なものが船越堤の夫池・婦池で、慶長年間(1595~1614)に出来たという。現在は桜の名所・船越堤公園として親しまれています。

見海山能満寺・矢部氏居館跡(南矢部)
元は真言宗「定金剛院」という寺でしたが、応永5年(1398)日順上人によって日蓮宗に改宗、見海山能満寺として開山した。現本堂は天明2年(1782)の建立です。能満寺の西側の台地が矢部氏の館跡と伝わっています

補陀洛山鉄舟寺〔久能寺〕(村松)
元は久能山にあった駿河の古刹・久能寺。戦国期武田氏が駿河に侵攻し久能山を城としたため現在地に移された。明治になって荒廃していたが、山岡鉄舟が再興を発願し、清水の魚商・芝野栄七翁が協力して、臨済宗鉄舟寺として明治43年(1910)中興した。
国宝の法華経(久能寺経)、県指定文化財の大般若経、蘭陵王舞楽面、千手観音像、市指定文化財の久能寺縁起、薄墨の笛、木像菩薩坐像(鎌倉時代、快慶作)など、仏像・古文書等多数の文化財が所蔵されています。ウォーク一行はここでお弁当を食べました。

壮士の墓
明治元年9月、江戸を脱走し北へ向かった榎本武揚率いる幕府軍艦8隻は千葉沖で暴風雨に遭遇。帆柱を失った「咸臨丸」は清水港へ漂着、修理中に官軍の飛竜丸など3隻が現れ攻撃を受けた。咸臨丸は府中藩の説得に応じ降伏の旗を掲げていたが、全員が殺された。死体は海に捨てられ漂ったが、官軍のお咎めを恐れて誰も手を出さなかった。死体は傷み腐臭で漁もできず困っている人々のため、清水次郎長は夜間に7人の遺体を回収、「死ねば仏様。官軍も賊軍もねぇ」と、向島に埋葬した。「壮士の墓」の墓碑銘は山岡鉄舟の命名で、鉄舟の揮毫を刻んだ石塔が建っている。

今回は、少し距離の長いウォークでしたが絶好の好天に恵まれ、有度山東麓の小高い道を南進しながら、所々で富士山の姿を見ることが出来ました。ウォークを楽しんだ参加者の皆さん、そしてガイド共々疲れた様子もなく、船宿末廣にゴールしました。皆さん、お疲れさまでした。