観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

ガイド養成講座「東海道・丸子宿とまほろばの里・泉ヶ谷」のフィールドワークを開催しました。

 

6月25日(土)静岡市主催の令和4年度『観光ボランティアガイド養成講座』の第2回「旧東海道・丸子宿とまほろばの里・泉ヶ谷」を参加者は23名。駿府ウエイブのガイド講師3名、スタッフ4名、4チームで開催しました。

今回のコースは、6月18日(土)の座学「日本遺産・駿州の旅―蒲原宿から藤枝宿―」に引き続き江戸時代の宿場町を実際に歩く「東海道・丸子宿」から「まほろばの里・泉ヶ谷」までをフィールドワークで行いました。

旧東海道沿いの松並木にあった松が1本残る丸子3丁目バス停付近を集合・出発点としてスタートしました。ガイドポイントの一部をご紹介します。

 

スタート前のオリエンテーション中です。

 

 

「丸子宿」は品川から数えて20番目の宿場町です。江戸時代は「鞠子宿」と書かれました。戸数211軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口795人、宿の町並み長さ約800メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》比較的小さな宿場町でした。

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、手越平太家綱が、奥州征伐の功により、拝領した邑“麻利子”1189年とあります。文治5(1189)年、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家綱という駿河の武士に丸子一帯を与え駅家を設けたのが起源といわれ、そののち交通の要衝として重要視されていました。

江戸時代以前は現在の「元宿」が宿場で、丸子川の流路変更・堤防建設で現在の丸子宿の土地が形成され宿場になったとも言われています。東に安倍川、西に宇津ノ谷峠を控え小さいながらも重要な宿場町でした。

丸子宿に入る手前に1里(約3,9km)ごとに設けた「一里塚」があります。道の両側に盛り土をして、榎などを植え、目印と旅人のための木陰などとしていました。宿場の出入口には「見付」といわれる街道の見張場の役目をした施設がありました。時代が下がると木戸はなくなり、幕末には見附は一里塚と同様に撤去されたようです。

 

 

丸子宿の東側の見付=江戸方見付をガイド中です。

 

ここから西へしばらく行くと丸子川と東海道との間が狭くなり家並みが途切れます。「丸子川堤防」が東海道沿いにあります。堤防がいつ、誰によって築かれたかは、今川説(~1568)、武田説(1568~1580)、中村一氏説(1590~1600)等がありますが判明していません。安倍川、藁科川の土砂の堆積により、丸子川の流れは、南に向かうしかなく、治水が完全でなかったようです。この堤防の完成により、宿場ができたのは間違いなさそうです。

 

 

東海道の直ぐ脇を丸子川の堤防が築かれています。

 

軒先に「屋号」を掲げた家々が目につきます。屋号とは、江戸時代、身分により武士以外の者が苗字を名乗ることが認められなかったため、人口が増加するにつれ、同一地域内で同じ名を持つ者が増え、個人を特定・判別しにくくなり、商人や農家等庶民が、集落内での取引あるいは日常生活に不便を生じたことから、家ごとに名称を付け、これを人別判別の材料として使うようになったといわれています。

 

参勤交代の大名や、勅使、公家、旗本などが休息、宿泊する「本陣」。本陣の補助的な宿泊施設で、平素は旅籠ですが本陣の重複時には本陣の代わりを務めた「脇本陣」。幕府の公用旅行者のために人や馬の手配を行うという、宿場で重要な仕事をしており、幕府の道中奉行が管理していた「問屋場」。一般旅客のための宿泊施設「旅籠」等々があり、石碑、案内板等で知ることができました。また丸子宿には、『紀州お七里役所』という施設もあり、江戸と和歌山の間、146里(584㎞)に七里(28㎞)間隔の宿場に独自の機関として、県内では、《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ飛脚を配置していました。江戸、和歌山間は道中8日を要し、特急便は4日足らずで到着。紀州藩城主頼宣は、家康の第十子で、駿府城主から紀州にお国替えさせられ、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いたとも言われています。

 

創業420年を超えるとろろ汁の丁子屋の建物は、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」・丸子宿を彷彿とさせます。 昭和45年頃丸子の大鈩(おおたたら)の集落にあった築後250年以上の建物を移設したものです。庭には十返舎一九が「東海道中膝栗毛」の中で、弥次さん喜多さんが注文したとろろ汁を用意している時に、お店の夫婦の喧嘩が始まり仲裁に入ったが食べ損ねた物語の中で 詠んだ狂歌「けんくはぁする夫婦は口をとがらして鳶とろヽにすべりこそすれ」の碑があります。松尾芭蕉の詠んだ「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」の句碑を含め、ここは250年に及ぶ戦のない徳川の平和がもたらした「江戸時代」の文化が集積されています。

 

 

丁子屋店舗前の十返舎一九の歌碑の前でガイド中です。

 

丸子橋を渡った先に「高札場」が復元されています。高札場とは、幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書き、人目を引くため高く掲げておく場所で高札の高さは約3~4m、間口は約3~5mあり、民衆に周知させる方法です。高札の文面には、一般の法令では使われない簡易な仮名交じり文が用いられ、掲示された法令に関しては「万民に周知の事」と言う理由で出版が許されたばかりでなく、高札の文章は「寺子屋」の書き取りの教科書として推奨されていたと言われています。250年に及ぶ徳川の平和が義務教育ではないにも関わらず「寺子屋」の全国的な普及・識字率の向上につながり、「東海道中膝栗毛」のベストセラー、浮世絵「東海道五十三次」の発刊に繋がりました。

 

 

駿府の工房・匠宿で、泉ヶ谷にある丸子城、柴屋寺等を座学で研修中です。

 

 

「まほろばの里・泉ヶ谷」の丸子城は今川氏が築城したと言われる保存状態がいい山城です。今川氏親に仕え、丸子・泉ヶ谷の柴屋寺に庵を構えた永正元年(1504)連歌師宗長は「丸子という里、家五,六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記しています。(宇津谷記) 待月楼は大正8年(1919)創業、森や竹林に囲まれた約1000坪の敷地に建つ数寄屋造りの料亭が待月楼。駿府の工房・匠宿等々をパワーポイントを使っての座学で講義を行いました。