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日本遺産 ・200年前の東海道旅物語『弥次さん喜多さん、駿州の旅』Web ミュージアム 。(その弐)

 

 

東海道の旅に関する200年前の物語「弥次さん喜多さん、駿州の旅」が、日本遺産に認定されました。

 

 

弥次さん喜多さんが主人公の『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九は、府中(現在の静岡市)の生まれといわれ、1802年に出版した滑稽本『東海道中膝栗毛』は 空前のベストセラーとなり、一九は日本で最初に文筆活動のみで自活することができた、今でいうベストセラー作家と言われています。

 

物語では、弥次郎兵衛は府中の、喜多八は江尻の生まれとされています。作者も主人公も静岡生まれという物語です。

東海道53次の名所・旧跡、名物の食べ物などが描かれており、江戸時代の旅を記録する貴重な資料ともなっています。

 

歌川広重の浮世絵木版画『東海道五十三次』保永堂版(1833年)は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の発刊と、貸本屋での爆発的人気に目を付けた版元が制作を企画した浮世絵と言われており、一九の『東海道中膝栗毛』の発刊が呼び水となった訳です。

 

『東海道五十三次』は広重の作品の中で最もよく知られ、最もよく売れた浮世絵木版画でもあり、北斎の『富嶽三十六景』シリーズとともに、名勝を写して、浮世絵に名所絵(風景画)のジャンルを確立したものとされています。

 

滑稽本『東海道中膝栗毛』と浮世絵木版画『東海道五十三次』の相乗効果で、約200年前お伊勢参りなど日本初の空前の旅ブームが起きた訳です。

 

東海道五十三次の宿場の内、静岡市には蒲原宿、由比宿、興津宿、江尻宿、府中宿、丸子宿、藤枝市には岡部宿、藤枝宿と8宿がありました。

滑稽本『東海道中膝栗毛』の各宿場の抜粋と浮世絵木版画『東海道五十三次』を東からご紹介します。

 

 

 

 

 

 

(一) 蒲 原 宿

 

 

一九は膝栗毛の中で喜多さんは、本陣に忍び込み大名の一行と思わせ、夕飯にありつき、

弥次さんへのお土産まで手に入れています。

 

 

 

 

広重は、蒲原宿を、東海道五十三次の中で僅か2枚の雪景色の内の1枚である「蒲原夜之雪」として印象的に描いています。

 

蒲原 夜之雪

温暖な土地柄である蒲原にしんしんと雪が降り積もり一面の銀世界となった夜の情景を描き、広重が作り出した虚構の世界と考えられている。夜の静寂を感じさせるモノクロームの世界で、傘・菅笠・蓑を身に着けた村人3人がさくさくと雪を踏みしめて家路を急ぐように歩く。庄野の白雨と並んで保永堂版の最高傑作である。

 

 

古地図で巡る駿州の旅【蒲原宿編】

古地図で巡る駿州の旅【蒲原宿編】はこちら。

 

江戸時代の蒲原宿の様子

 

品川から数えて15番目の宿場町です。戸数509軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒、人口2,480人、宿の町並み長さ約1.600メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》の中規模の宿場でした。 多くの宿場が人馬継立と農業に専念する中、甲州年貢の江戸廻米業務や、駿河湾での漁業に携わる人が多く、土地を所有せずとも農作を行わない人のため、米屋が複数存在していたという特徴がある宿場でした。産物は海魚、食塩、魚油、藍、サメなど、農間余業は、男は鯛・鰹。鰺などの漁猟、縄・わらじ作り、女は機織り。

又蒲原宿は人口の少ない隣宿・由比の肩代わりをされることも多く、西へは由比宿を越え興津宿までの継立を余儀なくされることもあり、伝馬範囲は吉原宿から興津宿までの広範囲にわたり、しかも薩埵峠という難所を抱え蒲原の人馬は疲弊されていたといわれています。

 

 

江戸時代を彷彿とさせる今の蒲原は 

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(二)  由  比  宿

 

 

一九は膝栗毛の中で、由比宿に入り、名物のさとう餅、間の宿・倉沢ではサザエやアワビの名物攻めに遭遇します。

 

 

 

広重は、東海道五十三次の興津宿と由比宿の間にある峠で、東海道屈指の難所として知られた「薩埵峠」を描いています。現在も往時と同じ富士の絶景を眺めることが出来ます。

 

由井 薩埵嶺

由比宿と興津宿の間にある薩埵峠の切り立った崖から眺める富士山と駿河湾の絶景を描く。左上の崖には楽しく眺望を楽しむ旅人2人と、見慣れた景色に見向きもしない薪を背負った地元の杣人とを対象的に描く。広重は対角線構図を用い左下方の岩や崖からなる密な空間と、右上方の海と空からなる開放的な空間を対比させている。

 

 

古地図で巡る駿州の旅【由比宿+薩埵峠編】

古地図で巡る駿州の旅【由比宿+薩埵峠編】はこちら。

 

江戸時代の由比宿の様子

 

品川から数えて16番目の宿場町です。戸数160軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠32軒、人口713人、宿の町並み長さ約600メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》の小規模の宿場でした。蒲原宿、興津宿に比べて小規模な宿場であったことから東海道各宿に割り当てられた人馬数(100人、100疋)の調達が難しく、11ヶ村が加宿に指定され、また助郷村は20ヶ村に及びました。本陣は宿場の中央に位置し、約1,300坪の広大な敷地でした。今川家の家臣で油井城主であった由比助四郎光教の子孫が代々岩辺郷右衛門を襲名し、明治に至るまで勤めました。由比宿を過ぎると難所といわれた薩埵峠を越えなければならず、峠越えの準備をするために、小さいながらも由比宿は重要な宿場でした。産物は、白絹・麻布・海魚・磯苔・食塩など。農間余業は、男は往還日雇稼、女は木綿織。

 

薩 埵 

由比宿と興津宿の間の海岸に突き出た山塊を超える峠。地蔵信仰の隆盛に伴い、仏教用語である「菩提薩埵」に由来して、中世には「薩埵峠」と呼ばれ「親知らず子知らず」といわれた難所でした。この由来については、「海道記」にもあるように、絶壁の山下の海岸を打ち寄せる波の引く間をぬって足早に通り抜け、親も子のことを気に掛ける余裕もなく、子も親のことを気に掛けるひまもないことから」とも、「危険な断崖絶壁を通る、振り返ることもできない狭い道であったことから」とも、「追剥になった親が、我が子とは知らずに殺してしまった、という伝説から」とも言われ、諸説あります。江戸時代中期に、朝鮮通信使の通行のために尾根を通る道が開かれた。

 

 

江戸時代を彷彿とさせる今の由比と薩埵峠はweb

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(三)  興  津  宿

 

 

一九は膝栗毛の中で、きな粉団子と思い注文した団子が米ぬか団子と知り、肩を落として次の江尻宿へ向かいます。

 

 

 

 

広重は、東海道五十三次の興津宿の風景を徒歩渡りの興津川を描いています。

 

興津  興津川

興津宿の東を流れる興津川の川越しの様子を描く。興津川は通常徒渡りで、冬季のみ橋渡しであった。川越しをするのは異色の相撲取り2人である。刀を腰に差しており大名抱えの力士と思われる。力士の重さに顔をしかめる駕籠かきたちの表情が面白い。遠景には駿河湾と、名勝として知られた清見潟が描かれる。

 

 

古地図で巡る駿州の旅【興津宿編】

古地図で巡る駿州の旅【興津宿編】はこちら。

 

江戸時代の興津宿の様子

品川から数えて17番目の宿場町です。戸数316軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人口1,668人、宿の町並み長さ約1.150メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》のこじんまりとした宿場でした。産物は紙・大根・鯉・甘藷。興津宿周辺は丘陵が海岸に接近する地形から、東西交通を監視・遮断するには好立地で、古代には東方からの不審者侵入防止のため清見関が置かれ、その関の守護のため設けられたのが清見寺と言われ、室町時代は足利尊氏の帰依を受け、戦国時代には一時荒れ寺となりましたが、今川義元の軍師・太原雪斎が再興し、江戸時代には清見潟の風光明媚な風景を眼下に見ることができることから朝鮮通信使の宿泊場所とされました。興津宿は清見寺の門前町として発展しました。身延、甲府へ通ずる甲州往還(身延街道)が分岐する交通の要衝であり、参詣の道、塩の道としての機能も持っていました。

 

 

江戸時代を彷彿とさせる今の興津は

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(四)  江  尻  宿

 

 

一九は、膝栗毛の中で、馬子と旅人のやりとりが面白く、気が付くと府中宿についていた.

 

 

 

広重は、東海道五十三次の江尻宿の風景を、日本平であろうか高所から、清見潟、

三保半島、駿河湾の景色を描いています。

 

江尻 三保遠望

副題に「三保遠望」とあり三保の松原を中継に配し、手前には清水湊の集落の屋根を描き、湊に停泊中の船や入港してくる帆船を描く。高所から俯瞰したパノラマ的な風景で、船の白い帆が次第に小さくなり、駿河湾の水平線の彼方へと視線が移動していく。広々した駿河湾の景色を描いて「保永堂版」唯一の純粋風景画となっている。

 

 

古地図で巡る駿州の旅【江尻宿編】

古地図で巡る駿州の旅【江尻宿編】はこちら。

 

江戸時代の江尻宿の様子

品川から数えて18番目の宿場町です。戸数1,340軒、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒、人口6,498人、宿の町並み長さ約1.420メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》の宿場でした。「江尻」とは巴川の尻(下流)を示し、巴川が作る砂洲上にできた宿でした。巴川河口を利用した清水湊には、海上運送業者の廻船問屋が集まり、大坂より木綿、油、綿、酢、醤油などの荷物を積込み商業活動をしていました。駿府町奉行が支配するお蔵が18棟も立ち並ぶなど、江戸へ物資を運ぶ重要な港として活気に満ちていました。元禄期には船手奉行と軍船が置かれ、甲州年貢米の輸送や西国の中継も果たし駿府の外港としての役割も担いました。産物は大根、木綿、甘藷。戦国時代には甲斐武田氏が駿河支配の拠点とし、江尻城や清水袋城を築き、鍛治町、鋳物師町、紺屋町などが配置された城下町も作られて、繁栄していました。

 

 

江戸時代を彷彿とさせる今の江尻は

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(五)  府  中  宿

 

 

一九は、膝栗毛の中で、府中の浅間様稚児舞楽の演目「安摩」で使用される面、

梶原堂、駿河細工、安倍川餅などに触れています。

 

 

広重は、東海道五十三次の府中宿の風景を、安倍川の川越しの様子を描いています。

 

府中 安倍川

駿府の西を流れる安倍川の川越しを描く。安倍川の水深は手前側では人足の胸まできている。画面右下には旅の女性3人連れが川越人足に担がれる。川越しの方法は山駕籠ごと紐で括り付けた輦台越し、平輦台越し、肩車越しとそれぞれ異なる。対岸からは荷馬の川越しや状箱をもった飛脚の川越しなど、様々な川越しが描き分けられる。

 

 

古地図で巡る駿州の旅【府中宿編】

古地図で巡る駿州の旅【府中宿編】はこちら。

 

 江戸時代の府中宿の様子

品川から数えて19番目の宿場町です。戸数3,673軒、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠43軒、人口14,071人、宿の町並み長さ約3.050メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》の宿場でした。東海道の中で最大の規模の宿場でした。府中宿は紙子・竹細工・油蒔絵・盆山石などの産地として知られ,七間町などの商家で売られた。また足久保茶は茶町が集散地でした。徳川家康が今川家の人質として幼少期を過ごした地でもあり、晩年には大御所として、ここ駿府から江戸幕府の礎を築きました。

家康が駿府に君臨していた時代は、「駿府九十六ヶ町」と呼ばれる街区が整備され、人口10万人とも12万人ともいわれ、上方(京・大阪)、江戸(15万人)に並ぶ大都市でした。

江戸時代の大ベストセラーとなった「東海道中膝栗毛」の著者、十返舎一九の生誕地でもあります。

 

 

 

江戸時代を彷彿とさせる今の府中は

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(六)  丸  子  宿

 

 

一九は、膝栗毛の中で、食事に立ち寄った弥次さん喜多さんが店の夫婦喧嘩に巻き込まれとろろ汁を食べることができなかった顛末を書いています。

 

 

 

広重は、東海道五十三次の丸子宿を、名物・とろろ茶屋の中で食事する二人連れの旅人を描いています。

鞠子  名物茶屋

丸子宿の名物・とろろ汁を出す茅葺屋根の茶店が舞台である。店の看板には「お茶漬」「酒さかな」と書かれ、店内には川魚を串に刺した巻藁や、軒下に吊るした干し柿が見える。縁台に腰掛けてとろろ汁をすする二人組は「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんのイメージを重ねている。梅の花が咲き、うららかな春の光景である。

 

 

古地図で巡る駿州の旅【丸子宿+宇津ノ谷峠編】

古地図で巡る駿州の旅【丸子宿+宇津ノ谷峠】はこちら

 

江戸時代の丸子宿の様子

品川から数えて20番目の宿場町です。江戸時代は「鞠子宿」と書かれました。戸数211軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口795人、宿の町並み長さ約800メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》比較的小さな宿場町でした。

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、手越平太家綱が、奥州征伐の功により、拝領した邑“麻利子”1189年とある。文治5(1189)年、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家綱という駿河の武士に丸子一帯を与え駅家を設けたのが起源といわれ、そののち交通の要衝として重要視されていた。

今川氏親に仕え、丸子・泉ヶ谷の柴屋寺に住んだ連歌師宗長は「丸子という里、家五,六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記しています。(宇津谷記) 江戸時代以前は現在の「元宿」が宿場で、丸子川の流路変更・堤防建設で現在の丸子宿の土地が形成され宿場になった。とも言われている。東に安倍川、西に宇津ノ谷峠を控え小さいながら重要な宿場町でした。松尾芭蕉の句、十辺舎一九の東海道中膝栗毛、歌川広重の浮世絵にも描かれた「とろろ汁」が昔も今も名物である。

 

 

江戸時代を彷彿とさせる今の丸子と宇津ノ谷峠は

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(七)  岡  部  宿

 

 

一九は、膝栗毛の中で、大井川の川留めのため足止めとなり岡部に宿泊すること、

川留めが明け出立する様子を書いています。

 

 

 

広重は、東海道五十三次の岡部宿の風景を、東海道屈指の難所・宇津ノ谷の集落を描いています。

 

岡部  宇都之山

豊臣秀吉によって開かれたという東海道宇津ノ谷の峠道を描く。街道の両側から迫ってくる山の急斜面と、段差をつけて流れ落ちる岡部川の急流が、奥深い山中の雰囲気を醸し出す。薪や駕籠を担いだ3人の農夫が奥に行くほど小さく描かれ、最後尾の人物は胸から下が隠れており、急な坂道を越えて向かってくる遠近感が表現される。

 

 

古地図で巡る駿州の旅【岡部宿編】

古地図で巡る駿州の旅【岡部宿編】はこちら。

 

江戸時代の岡部宿の様子

品川から数えて21番目の宿場町です。戸数487軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠27軒、人口2,322人、宿の町並み長さ約1470メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》宇津ノ谷峠の西に位置する比較的小さな宿場町でした。丸子。藤枝宿より1年ほど遅れて誕生しました。男は往還日雇稼・薪拵、女は木綿を織った。

宿場町全体における旅籠の割合が、最も低かったと言われている岡部宿は、やがて東海道の往来の増加とともに、人馬継立が不足するようになり、後に加宿として「内谷」が加わりました。

その中で、岡部宿を代表する旅籠となっていたのが、2度の火災を受け1836年再建の『大旅籠 柏屋』です。東に宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)の宿の指定を受けました

 

宇津ノ谷峠

丸子宿と岡部宿を結ぶ宇津ノ谷峠は、東海道屈指の難所でした。宇津ノ谷の集落をまっすぐに旧東海道が貫き、屋号を掲げた家並みが往時の風景を思い起こさせます。7世紀からの道であるといわれる蔦の細道をはじめ、小田原攻めに向かう豊臣秀吉が整備し、江戸時代には参勤交代の大名をはじめ古くから多くの人が行き交ってきた場所です。

 

 

江戸時代を彷彿とさせる今の宇津ノ谷峠と岡部は

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(八)  藤  枝  宿

 

 

一九は、中膝栗毛の中で、喜多さんの喧嘩の様子や、名物・山梔子の実で染めた染飯を紹介しています。

 

 

 

広重は、東海道五十三次の藤枝宿の風景を、藤枝宿の問屋場の前で荷物を引き継ぐ様子を描いています。

 

藤枝  人馬継立

宿場から宿場へ人や荷物をリレー方式で継ぎ送ることを人馬継立といい、藤枝宿の問屋場の前で荷物を引き継ぐ様子を描く。荷物を運び終えた人足は煙管を吹かして一服し、これから出発する人足は馬の荷物を乗せ換え、天秤棒で荷物を担ぐなど準備に余念がない。人馬継立を見守る宿場の役人「問屋役」や帳簿に記録する帳付も描かれている。

 

古地図で巡る駿州の旅【藤枝宿編】

古地図で巡る駿州の旅【藤枝宿編】はこちら。

 

江戸時代の藤枝宿の様子

品川から数えて22番目の宿場町です。戸数1,061軒、本陣2軒、旅籠37軒、人口4,425人、宿の町並み長さ約980メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》の宿場町でした。当初問屋場は1ヶ所でしたが、手狭となり2ヶ所となり、上伝馬町では京都から江戸への下りの荷物を、下伝馬町では江戸から京都への上りの荷物を扱い問屋場での滞留時間の短縮が図られました。近くを流れる瀬戸川には乾期に仮橋が架けられ、通常の水量の時は歩行渡しでした。藤枝宿は、歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城を仰ぐ本多家4万石の田中藩の城下町でもあり、また塩の産地であった田沼意次の所領相良に通じる田沼街道や、高根白山神社への参道高根街道・瀬戸谷街道などの交通の要衝として、また商業地としても栄えました。

 

 

 

江戸時代を彷彿とさせる今の藤枝はweb

 

 

弥次さん喜多さんが主人公の『東海道中膝栗毛』と歌川広重の浮世絵木版画『東海道五十三次』の

もう少し詳しい内容はこちらから。

 

 

 

《 参考文献 》 

〇 日本古典文学全集81『東海道中膝栗毛』 中村幸彦 校注/小学館 

〇 『東海道中膝栗毛(現代訳)第一部』 平野日出雄 訳/十返舎一九の会発行・

 (有)静岡出版 静岡市文化財資料館     

〇 藤枝市郷土博物館 平成29年特別展図録『二つの東海道五十三次』藤枝市郷土博物館  

 

《 画像提供 》

〇 歌川広重『東海道五十三次  保永堂版 』    丸子元祖丁子屋 

〇 松永宝蔵『東海道は日本晴れ』由比・望嶽亭

〇『古地図で巡る駿州の旅』 駿州の旅日本遺産推進協議会