『駿府九十六ヶ町』町名碑が、新たに材木町、横内町、横内田町、安倍川町の4か所に設置されました。

家康公は慶長10年(1605)、将軍職をわずか2年で秀忠に譲り大御所となりました。翌年駿府に隠居する旨を宣言し、駿府城主内藤信成を長浜に移し、慶長12年(1607)から駿府城の改修と駿府の町づくりに着手しました。駿府城の修復は全国の大名に普請(土木工事)を命令する天下普請により行われ、京都、伏見などから大工、鍛冶屋、車屋、左官などの技術集団も呼び寄せられました。町は、武士、商人、職人、農民等の職業によって住む場所が分かれていました。町人地は、駿府城の南側 (呉服町・七間町・両替町方面)に開け、整然と碁盤の目状に区画割された町でした。町づくりは慶長14年(1609)ごろにはほぼ完成し、「駿府九十六ヶ町」が成立したと言われています。

 

家康公が原点を築いた「駿府九十六ヶ町」の各所在地に町名碑を設置することを通して、現在にもつながる町名の由来を知り、地域の歴史に触れる機会を身近なものとして提供することを目的に、静岡市は平成30年度までに34基の町名碑設置を完了しています。今後、令和4年度までに残りの15基を設置する計画です。(「●丁目から●丁目」の町名は統合し設置数は49か所となります。)

令和2年3月、新たに材木町、横内町、横内田町、安倍川町の4か所に町名碑が設置され合計38基となりました。令和4年度までにあと11基となりました。

 

新たに設置された町名碑

 

 

  材木町(安倍街道・富士葬祭前交差点)

駿府城の西に位置した町です。慶長年間(1596~1615年)、静岡浅間神社建立の際、安倍川の河原に積み置かれた余りの材木を売買するように命じられ、やがてこの地に木材を商売とする人々が居住したことから材木町と呼ばれるようになったと、『駿国雑志』(江戸時代に書かれた駿河国の地誌)は伝えています。江戸時代を代表する地誌の1つである『駿河国新風土記』には、延宝年間(1673~1681年)の頃は井宮町と呼称されていたとの記載があり、いつから材木町として1つの町を形成するようになったのかは分かっていません。
町内には、安倍山中から切り出す材木を安倍川に流し、集まった材木を材木税としてその10分の1を取って保管する材木役所や、5石びきの水車小屋が2つ存在しました。文政11(1828)年、安倍川大洪水の際、薩摩土手が決壊し、材木町は安倍川の本流となりました。駿府城を守るために浅間神社の大木を切り倒して水を防いだという話が伝わっています。

 

 

 

                                                                                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                        安倍川町(静岡県地震防災センター前)

駿府城の南西にあたる東海道往還の新通7丁目から小路を少し南に入ったところに位置した町です。安倍川の渡しの近くに町があったことから安倍川町となったと、『駿国雑志』(江戸時代に書かれた駿河国の地誌)は伝えています。
安倍川町はかつての遊女町で、「阿部川町」とも書き、俗称で「二丁町」と呼ばれました。慶長12(1607)年、鷹匠として徳川家康に長年仕えてきた伊部勘右衛門が辞職を願い出た際、家康が2町四方の土地を与え、遊郭としたことが町の起源となっています。安倍川町の遊郭は幕府公認のものとしては、江戸の吉原より古く、日本の歓楽街のはじまりと位置付けられ、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にもそのにぎわいが描写されています。その後、昭和20(1945)年の静岡空襲と翌年の公娼制度廃止により遊郭は完全に消滅し、昭和41(1966)年に町の大部分が駒形通5丁目へと改められました。

 

 

横内町(静清信用金庫・横内支店前)

駿府城下から東に向かう北街道沿いに位置した町です。慶長(1596~1615年)の頃、駿府城の周辺を取り巻く武家屋敷に連なっており、町屋の部分が横内町でした。町名の由来は『駿河記』(江戸時代に書かれた地誌)では「其名付る由未詳」とあり、不明となっています。
駿府城三の丸の南東部に位置する門は「横内門」と呼ばれ、駿府町奉行が二人役であった頃の横内方町奉行所はこの門の前に置かれていました。町内には、徳川家康にゆかりの深い来迎院があり、家康がお茶の水に使用したという井戸が存在しました。また、かつては町内を流れ、現在は暗渠となっている横内川は巴川と合流して江尻湊に通じ、舟が物資を城内に運搬していたと言われています。寛政年間(1789~1801年)には、上土から静岡市内までの舟の乗り入れを図るため、川の改修工事が計画されたほど主要な水路でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                 

   

   

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 横内田町(北街道・太田町交差点北側・西約10m)

 駿府城下の東に位置した北街道沿いの町で、横内町の東側にありました。この町には徳川家康と関係の深い伝説が残っています。江戸時代の駿府奉行が著した『名乎離曽の記』によると、慶長年間(1596~1615年)に家康が鷹狩に出かけた際、休息のために寄った家の老婆が、「近頃は朝夕関係なく牛車の通行が多く、騒音でやかましいので、何とかしてもらいたい」と願い出ました。家康は老婆の申し出を聞き入れ、以後、この町中の牛車の通行を禁止したといいます。江戸時代はじめは人家も多く存在しましたが、19世紀半ばには住人がなく、江戸時代末期には横内町に編入されました。そのため、横内田町は駿府九十六ヶ町の中でも町の全容に不明な点が多く、解明されていません。