興津川に沿う小島・両河内地区を巡って来ました。

地元の方々に案内して頂き、静岡市清水区の小島(おじま)・両河内(りょうこうち)巡りを楽しみました。小島陣屋跡を見学するのが一番の目的でした。

 

52号を北上して10分程で臨済宗妙心寺派の龍津寺(りょうしんじ)に着きます。こちらは小島藩1万石の藩主松平家の香華寺で、三代藩主、滝脇松平昌信候の墓所を祀ってあります。勝野住職に説明して頂きました。なかでも印象に残ったのが「須弥山儀(しゅみせんぎ)」と呼ばれる模型です。須弥山儀は江戸時代後期の天台宗の僧侶、普門円通(ふもんえんつう1754~1834年)が古代インドの仏教の世界観を説明するために考案したもので、重りを使った動力で太陽と月、星座の動きを再現して、布教活動していたものです。西洋の地動説が広まることにより仏教の権威が失われることを恐れ、仏教の天動説である須弥山宇宙説にもとづく円盤状の世界像をモデル化した宇宙儀です。現在国立科学博物館などに9基が確認され、龍津寺の須弥山儀は1824年製作で徳川慶喜が所持し、明治になり天動説が禁止されて宝台院(静岡市葵区)に隠され、龍津寺に移されたとされます。現在は動かない状態ですが、現存するなかでは最も古いとみられています。そして白隠禅師が1755年の開山200年遠忌の際に招かれ使用した構台もあり、住職はこの椅子を見る度に身が引き締まるとおっしゃっていました。また、国文学史上「黄表紙の租」とされる小島藩士恋川春町(こいかわはるまち、戯作者・浮世絵師、本名倉橋格1744~1781)の倉橋家のお墓もあります。龍津寺では寺子屋教室や子供食堂なども行っていて地域の方々に親しまれているようです。

 

 

 

                                                                                中日新聞より

 

 

 

 

小島陣屋跡へは車で5分ぐらい。元禄11年(1698年)、四代松平信治が領地のすべてを庵原・安倍・有度の三郡にまとめられ、小島藩を立藩し宝永元年(1704年)に小島陣屋が築かれ、明治まで174年藩政の本拠地でした。甲州往還(国道52号)または身延道からやや西に入った高所にあります。5000坪の敷地内に石垣を多用した三段の曲輪や大手口の高さ4mの見事な石垣、小規模な桝形、井戸も見られます。城を持つことが許されない三万石以下の無城主大名ではあったが、小島陣屋は石垣を用いた城郭風の造りが印象的な国指定史跡です。明治になり小島藩は上総に転封後、静岡藩が管轄し、小学校用地となりました。書院の建物は校舎として利用され、その後移築し公会堂として使用されていたため今でも現存し、数年後には陣屋跡の元の場所に戻す計画だそうです。戻った書院を再訪したいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

次に舎人親王社祠へ。舎人親王(676~735)は第40代天武天皇の皇子で日本書紀の編纂をしたとされ、この但沼の地で薨去されたという言い伝えがあります。江戸の終わりに堀池秀次郎(1770生)により祠が建てられ、舎人親王の霊を慰めるための舎人親王祭典では秀次郎起源の市指定無形民俗文化財の「親王囃子」の奉納が今でも受け継がれいます。また秀次郎が製作したといわれる道祖神もあり、舎人親王を模したと思われる、珍しい衣冠束帯のレリーフが目を引きます。

 

 

 

 

 

 

 

52号から興津川に沿って西に入り、地区の氏神様、但沼神社へ。静岡市景観重要樹木の清水区の代表、クスノキの大木が見事です。小高い神社の小さな社殿を守るようにそびえ立っています。静岡市景観重要樹木の葵区の木は大原の中藁科小学校のイチョウ、駿河区は安居の石蔵院のイチョウです。

 

 

 

最後に両河内の奥、河内の大石へ。高さ19m、周囲60mの巨石が道路沿いにどんとお出ましに。安政の大地震(1854)に第2真富士山の中腹から崩れ落ち、翌年の豪雨によりこの場所まで流れ着いたとされる静岡市指定天然記念物の大石です。安産祈願の大石神社が祀られています。

 

 

 

小島、両河内へ行き、陣屋が何故ここの場所に築かれたのかを少し実感できました。いつも山梨、長野方面へ抜ける途中で通過していました。両河内では中部横断道も建設され山の上にそびえ立つ道路を見上げました。便利になり遠くに早く行くことができ、近くの良さを忘れがちになります。多くの見どころがあります。そして興津川の清流に見とれました。次は是非鮎釣りを体験したい、と思いながら帰途につきました。