観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

一九、広重をはじめ多くの旅人が歩き、とろろ汁を食べたであろう「東海道・丸子宿」を散策ました。

 新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、駿府ウエイブは4月中旬より、ウォークガイド活動を休止していましたが、藤枝市・静岡市が共同申請しました『日本初の「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅 ~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~』 が日本遺産に認定されことを記念しまして、 10月14日(水)、16日(金)、17日(土)、19日(月)の4日間、7班に分けて「東海道・丸子宿を歩こう」を開催しました。

 

 当初4日間で75人の定員で募集を行いましたところ、申し込みが殺到しましたので、40人定員を増やし、結果99人の参加があり、ガイド21人で丸子宿と丁子屋前をガイドさせていただき、丁子屋の資料館では丁子屋14代の柴山広行氏のミニ講演、その後とろろ汁の会食を楽しんでいただきました。

 

「丸子宿」は東海道53次の宿場の中では比較的小さな宿場ですが、宿場としての機能(幕府の公用旅行者や書状・物資を運ぶため、人馬の継立・問屋場や宿泊施設・本陣、脇本陣、旅籠など)はすべて整っていました。江戸・日本橋から20番目にあたり、東に安倍川、西に宇津ノ谷峠を控えて、 鎌倉時代の日本最初の歴史書と言われる「吾妻鏡」には文治5年(1189)、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家綱という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を設けたのが起源と記されており、以来交通の要衝として重要視されていました。

 

 今回のコースはコースは旧東海道沿いの松並木にあった松が1本残る丸子3丁目バス停付近を集合・出発点としてスタートしました。「松並木」は東海道の宿場と宿場の間に植えられ、植えられた木は、松・杉・檜・槻など様々で、旅人の夏の木陰、強風除け、積雪した際の道筋の目安となりました。安倍川を渡り、丸子宿に至る道筋に昭和30年代まで存在していました。

 

 丸子宿に入る手前に1里(約3,9km)ごとに設けた「一里塚」があります。道の両側に盛り土をして、榎などを植え、目印と旅人のための木陰などとしていました。

 いよいよ丸子宿に入ります。宿場の出入口には「見付」といわれる街道の見張場の役目をした施設がありました。時代が下がると木戸はなくなり、幕末には見附は一里塚と同様に撤去されたようです。

 ここから西へしばらく丸子川と東海道との間が狭くなり家並みが途切れます。「丸子川堤防」が近くにあります。堤防がいつ、誰によって築かれたかは、今川説(~1568)、武田説(1568~1580)、中村一氏説(1590~1600)等がありますが判明していません。安倍川、藁科川の土砂の堆積により、丸子川の流れは、南に向かうしかなく、治水が完全でなかったようです。この堤防の完成により、宿場ができたのは間違いなさそうです。

 

 軒先に「屋号」を掲げた家々が目につきます。屋号とは、江戸時代、身分により武士以外の者が苗字を名乗ることが認められなかったため、人口が増加するにつれ、同一地域内で同じ名を持つ者が増え、個人を特定・判別しにくくなり、商人や農家等庶民が、集落内での取引あるいは日常生活に不便を生じたことから、家ごとに名称を付け、これを人別判別の材料として使うようになったといわれています。

 現在酒屋を営んでいる屋号・三州屋「白井酒店」のお店にお邪魔しました。ご主人にお話をお聞きしました。元々は愛知県・三河地方の三州瓦の職人であり、駿府城築城の折、招集されたそうです。長田村(1891~1934)以前に使われていた「有度郡丸子宿」と書かれた質屋書付台帳を拝見させていただきました。4日間、5~10人のグループに何回となく説明いただきありがとうございました。

  

 参勤交代の大名や、勅使、公家、旗本などが休息、宿泊する「本陣」。本陣の補助的な宿泊施設で、平素は旅籠ですが本陣の利用が重複時には本陣の代わりを務めた「脇本陣」。幕府の公用旅行者のために人や馬の手配を行うという、宿場で重要な仕事をしており、幕府の道中奉行が管理していた「問屋場」。一般旅客のための宿泊施設「旅籠」等々があり、石碑、案内板等で知ることができました。

 また丸子宿には、『紀州お七里役所』という施設もあり、江戸と和歌山の間、146里(584㎞)に七里(28㎞)間隔の宿場に独自の機関として、県内では、《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ飛脚を配置していました。江戸、和歌山間は道中8日を要し、特急便は4日足らずで到着。紀州藩城主頼宣は、家康の第十子で、駿府城主から紀州にお国替えさせられ、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いたとも言われています。

 

 創業420年を超えるとろろ汁の丁子屋の建物は、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」・丸子宿を彷彿とさせます。 昭和45年頃丸子の大鈩(おおたたら)の集落にあった築後300年以上の建物を移設したものです。庭には十返舎一九が「東海道中膝栗毛」の中で、弥次さん喜多さんが注文したとろろ汁を用意している時に、お店の夫婦の喧嘩が始まり仲裁に入ったが食べ損ねた物語の中で 詠んだ狂歌「けんくはぁする夫婦は口をとがらして鳶とろヽにすべりこそすれ」の碑があります。松尾芭蕉の詠んだ「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」の句碑を含め、ここは250年に及ぶ戦のない徳川の平和がもたらした「江戸時代」の文化が集積されています。

 

 丸子橋を渡った先に「高札場」が復元されています。高札場とは、幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所で高札の高さは約3~4m、間口は約3~5mあり、民衆に周知させる方法です。高札の文面には、一般の法令では使われない簡易な仮名交じり文や仮名文が用いられ、更には当時の幕府は法律に関する出版を禁じる方針を採っていましたが、高札に掲示された法令に関しては「万民に周知の事」と言う理由で出版が許されたばかりでなく、高札の文章は「寺子屋」の書き取りの教科書として推奨されていたと言われています。 250年に及ぶ徳川の平和が義務教育ではないにも関わらず「寺子屋」の全国的な普及をもたらし、識字率の向上につながり、「東海道中膝栗毛」のベストセラー、浮世絵「東海道五十三次」の発刊に繋がりました。

丁子屋歴史資料館では14代の柴山広行氏のミニ講演を拝聴しました。創業425年、丸子とともに歩んできた。創業当初は半農半商で始まり、レストランのみで成り立つようになったのは、50年前に先々代の12代が決断し、広重の丸子宿に描かれた茅葺屋根の建物を移築してからとのとのことです。数日前の10月12日に社長に就任し、初代の「丁子屋平吉」を名乗ることにしたとのこと。東海道53次の宿場の経営者とのネットワークを組み、東海道53次の各宿場に残る先人の残した「日本の遺産」を次世代に送り届けたいと熱く語っていただきました。4日間、7回のミニ講演ありがとうございました。

 

ミニ講演の後はお待ちかねの丸子・丁子屋の「とろろ汁」の会食です。「静岡に住んで35年経ちますが、我が家のとろろ汁は醤油仕立て。丁子屋の味噌仕立てを初めていただきました。感激です。」との感想を頂けた参加者もいらっしゃいました。

 

参加された方々からは「コロナ禍の中で、旅行、外出を控えていたが、少人数での企画であるため参加した。」「藤枝の図書館にチラシがあったので申し込んだ。このような催しがあったら又参加します。」「開催日が4日あり、こちらの都合に合わせて参加できることができた。」「ウォークガイド+ミニ講演+食事とバラエティーに富んでいて楽しかった。」「宿場の役割、屋号の持つ意味などが理解でき、一九、広重の繋がりも判った。」「高札が寺子屋の教科書にも使われ、識字率の向上にも役立っていたことには驚いた。」「丸子宿のことは初めて知りました。高札のことも含め貴重な資料も拝見でき良かった。」等々の感想をいただきました。

 

   集合・出発地点の1本松付近

丸子宿・江戸方見付の説明板を使ってのガイド風景

丸子川堤防付近の水神社でのガイド風景

宿場の中間点付近にある白井酒店、屋号は「三州屋」。初代は愛知県三河出身の瓦屋さん。

十返舎一九の歌碑の前でのガイド風景。

安藤広重の丸子宿の浮世絵の謎解きの最中?

この日は参加者多数のため茅葺屋根の建物の部屋での、ミニ講演会となりました。

お待たせしました!とろろ汁の食事です。皆さん久しぶりのとろろを堪能されていました。

 

※「日本遺産(Japan Heritage)」とは地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を,地域が主体となって総合的に整備・活用し,国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより,地域の活性化を図ることを目的としています。