観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

11月12日(土)「駿府九十六ヶ町町名碑めぐり」が開催されました

11月12日(土)徳川家康公が作った町割り「駿府九十六ヶ町」を巡る

ウォーキングイベント「駿府九十六ヶ町町名碑めぐり」

が開催されました。

 

コースは、静岡市役所を出発し、家康公の側室の於愛の方ゆかりの宝台院や中心市街地の

町名碑をめぐり、静岡浅間神社・静岡大河ドラマ館までの3km程度のウォーキングコースです。

参加者61名(当日参加5名含む)、9グールプに分かれてスタートしました。

 

 

 

ついこの間まで11月だというのにいつまでも暑いねという挨拶を交わしていたのですが、

この日は気温が下がり、薄っすら雲がある少し肌寒い秋らしい日でした。

 

 

 

 

静岡市役所・本館

現在の本館は浜松市出身の中村與資平が設計、旧富士川
町岩淵(現富士市)の勝呂組(三井住友建設と合併)に
より昭和9年(1934)に竣工した建物です。
入口前で玄関の大理石の中に化石があるのですよとの
説明を聞き、隣の静岡市の由来碑の前へ移動、地名の
由来やご用水などの説明をうけます。
 

『静岡の由来の碑』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『御用水』と『町方用水』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

建物ぐるりとまわると静岡市プラモデル化計画の”プラモニュメント”のポストがありました。

新館と本館を結ぶ連絡通路は別名『思案橋』と呼ばれているという説明では参加者の方がくすりと

笑う場面もありました。

 

 

 

呉服町

家康公の『呉服所』(家康公の衣服などを用意する呉服屋)があったことが由来だそうです。江戸時代の呉服町は1丁目から6丁目に分かれており、このうち4丁目から6丁目(現在の呉服町2丁目)を東海道が通っていたとのことです。

静岡最古の店を探す番組が放映されたこともあり、江戸時代から続いているお店が7件あるという話に皆さん興味津々でした。

 

 

 

普段何気なく歩いている呉服町通りですが、町の区切りはアーケードの屋根と外灯のデザインが違うという話をきき、改めて町を眺めてみました。

 

 

 

確かにアーケードの屋根と街灯のデザインがちがいますね!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外灯には東海道五十三次の絵が!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紺屋町

ここで出てきました町名碑、人が直立して両手をあげている姿に

見えますね。紺屋町の名は、江戸時代はじめに染物師の町として

整備されたことに由来するそうです。

 

鍛治町

江戸時代に多くの鍛冶職人が住んでいたことから、鍛冶町の名

つけられました。ここにも”プラモニュメン”があります。

 

下桶屋町

江戸時代に、桶を作る専門職人が居住していたところのうち、

林惣右衛門という桶職人の棟梁が住んでいた町を上桶屋町

(茶町と柚木町に接した町)、もう一方を下桶屋町と呼んでいた

そうです。昭和20年(1945)に、昭和町と紺屋町に分割編入され

下桶屋町の町名はなくなったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下魚町

用宗方面から運ばれてくる魚介類を扱う商人が集まり、慶長年間に常駐御用の魚問屋が置かれていたそうです。

意外なことに戦後ここには火力発電所があったそうです。

 

金米山宝台院龍泉寺

宝台院は徳川2代将軍秀忠(徳川家康3男)、松平忠吉(徳川家康4男)の生母、西郷の局の菩提寺です。西郷

の局は、大河ドラマ「どうする家康」では広瀬アリスさんが演じられているお愛の方ですね。

こちらには増上寺の黒本尊と同じく家康公の守り本尊となった『白本尊』と呼ばれる白本尊阿弥陀如来立像

(国指定重要文化財)があります。

たまたまいらしたご住職から拝聴したのですが、静岡大火の時に宝台院も燃えてしまったのですが、『白本

尊』は県の職員の方と一緒に避難して難を逃れたそうです。また明治維新後、徳川15代将軍徳川慶喜公が謹

慎した寺院としても知られるお寺ですが、なぜこのお寺が謹慎先に選ばれたかというと東海地方で一番広い

(一万弱坪)お寺だったからというお話もお聞きしました。

 

 

 

常慶町

松下常慶が居住していたことに因んだ町名で、昭和20年まで教覚寺だけで一町という珍しい町だそうです。

 

 

松下常慶は駿府城築城のとき、二ノ丸東御門を10日間で完成させた功績により、土地と700石が与えられた

そうです。常慶は駿府城の台所奉行となり、城内の米蔵は「常慶蔵」と呼ばれ、東御門は別名「常慶御門」

と呼ばれたそうです。一軒の家=一つの町だなんてスケールが違いますね。

 

 

北村寿子作:家康公が愛した城下町

 

 

藤右衛門町

町名の由来は、藤右衛門という人が住んでいたことによりますが、昭和15年(1945)の静岡大火後の区画整理で七間町に編入され、町名は消滅しました。

浄円寺は能楽の発展に深くかかわった寺として知られています。

釣鐘の話をきいて、いつかこの鐘(金)の音を聴いてみたいと思いました。

 

七間町・七間町通り

今川時代の駿府の豪商〔伴野氏〕が伴野座の七座の長として、この地に屋敷地を置き支配していたことが「七間〔軒〕」の町名の由来だそうです。

 

札之辻町・高札場

江戸時代この地に庶民に向けて幕府の法令などを掲示する「高札場」があったことに由来するそうです。伊勢丹前に高札場が復元されています。実物はこの大きさより1.5倍大きかったそうです。

(高さは約3~4m、間口は約3~5mくらい)

江戸時代の識字率が75%と高いのは(同じ時期のイギリスが25%くらい)、この高札の文章や法令が寺子屋の書き取りの教科書だったこともあったようです。

文化的素地があったから江戸時代の日本は庶民が文化を発展させた面白い時代でもあったのでしょうね。貴族が文化を発展させたヨーロッパとはまた違った面白さがありますね。

 

 

 

 

門?のところに東海道中膝栗毛のシーンがあると気が付かなかった

 

 

 

 

茶町通り

古くから安倍山中で生産した茶を売買する商人の町でした。

 

上魚町

下魚町に集まっていた御用の魚問屋の一部が駿府城に近い場所に移されたのが由来だそうです。大御所時代には後藤庄三郎光次が江戸時移るまではここを金座として「駿河小判」と呼ばれる金貨を鋳造していたそうです。現在、金座の跡地は日本銀行静岡支店です。

 

車町

家康公が京都から牛飼いを呼んで住まわせたことに由来するそうです。

駿府城築城時の資材運搬から物資運搬などを担ったそうです。

 

浅間通り・馬場町

 

徳川家康公が駿府城に在城の頃に馬場があった事に由来するそうです。宮ヶ崎町と共に浅間神社の門前町として発展してきました。

 

宮ヶ崎町

古くから静岡浅間神社に鎮座する7社のうち大歳御祖神社の門前町として発展してきたそうです。大歳御祖神社は万葉集に登場する「安倍の市」の守護神だそうです。

 

 

いよいよゴールです。

 

 

 

静岡浅間神社・大河ドラマ館の前のテントでは記念のお土産を配っています。

参加者の皆さま、お疲れさまでした。いつも見ている町とは違うおまちを感じていただけたでしょうか。

 

 

 

 

 

駿府九十六ヶ町ハンカチ、瓦せんべい、チョコレート、飲み物を

いただきました!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガイドの皆さま、関係者の方々、お疲れでした。

 

 

 

 

 

 

駿府96ケ町のMAPはこちら:MAP

 

 

 

 

 

 

 

おしまい