家康公が整備した『駿府九十六ヶ町』の町名碑、台所町、八幡小路町、四足町、大工町に完成しました。
台所町、八幡小路町、四足町、大工町の4か所に新たに町名碑が設置され
昨年設置された人宿町、本通川越町、堤添川越町、新通川越町を加え50基となりました。
家康公が愛したまち・静岡
家康公は慶長10年(1605)、将軍職をわずか2年で秀忠に譲り大御所となりました。
翌年駿府に隠居する旨を宣言し、慶長12年(1607)から駿府城の改修と駿府の町づくりに着手しました。
駿府城の修復は全国の大名に普請(土木工事)を命令する天下普請により行われ、
京都、伏見などから大工、鍛冶屋、車屋、左官などの技術集団も呼び寄せられました。
町は、武士、商人、職人、農民等の職業によって住む場所が分かれていました。
町人地は、駿府城の南側 (呉服町・七間町・両替町方面)に開け、整然と碁盤の目状に区画割された町でした。
町づくりは慶長14年(1609)ごろにはほぼ完成し、「駿府九十六ヶ町」が成立したと言われています。
家康公が整備した「駿府九十六ヶ町」の各所在地に町名碑を設置することを通して、現在にもつながる町名の由来を知り、地域の歴史に触れる機会を身近なものとして提供することを目的に、静岡市は令和4年度までに50基の町名碑設置を完了しています。(「●丁目から●丁目」の町名は統合し設置数は49か所となります。)
レッド枠=令和5年2月設置。グリーン枠=令和4年2月設置。グレー枠=令和3年度以前設置。点線枠=令和5年2月未設置。
上下草深町(西草深ポケットパーク)、院内町(西宮神社)の説明パネルは設置されています。
令和5年2月、新たに設置された町名碑
㊧ 八 幡 小 路 町 ( つつじ通り・東海澱粉前 )
東海道から久能に通じる道沿いにあった町。現在、伝馬町通りとの交差点の角に「久能山東照宮道」の碑が立てられています。久能街道とも呼ばれ、ここから久能山下まで2里11町(9.2km)。江戸時代参勤交代で江戸へ向かう西国大名は、ここから久能山に向かいました。この街道は古くから久能でとれた塩を始めとする海産物を駿府に運ぶ役割を果たしていました。この道の起点部分は八幡小路と呼ばれ、道の両側にあったのが八幡小路町でした。
㊨ 台 所 町 ( つつじ通り・スギ薬局前 )
台所町は駿府城の台所門(横内門)に通じるところにあったことに由来すると言われています。昔は横田魚町ともいわれ元亀年間(1570~73)武田家より魚座を免許され魚座があったという。また当町は井戸を掘っても水が出ないとされ、そのいわれは、昔弘法大師が諸国巡錫中ここを訪れて水を所望したが、みすぼらしい姿をしていたために土地の者が断ったためという。
㊧ 四 足 町 (よつあしちょう) ( 中町・尼ヶ崎稲荷神社境内 )
駿府城の四つ足御門の前に位置する町であった。名前の由来は、「今川館の四脚門があった町であった」。「古代の国府の四脚門があった町であった」。等々諸説あります。また、家康公駿府在城時、大坂の豪商で三町人といわれた一人であった尼崎又右衛門が家康公に召されて当町に屋敷を構えました。今でも尼ヶ崎稲荷神社があります。
㊨ 大 工 町 ( 屋形町・土手通り/昭和通り一筋西下がる )
駿府城大手門の南西に位置する町名は大工が居住したところにちなむ。古くは現在地から北の方に町屋が続いていたが、慶長年間の町割りによって除かれた。そこの住人は新通2丁目に替地をもらい新通大工町と称し、元の大工町は「上大工町」と呼ばれた。町割りで削られた部分が武士の居住地として割り当てられたのであろう。駿府古地図で見るとそのあたりが明屋敷となっている。
令和4年2月に 設置された町名碑
㊧ 人宿町 ( 人宿町通り・七間町郵便局北方、交差点左手前角 )
慶長6年(1601)に東海道府中宿の一部となり、問屋場や本陣もできて諸大名の宿泊などで賑わいました。横田町や伝馬町が荷物運搬に係る人馬中継のための宿駅としていたのに対し、人宿町は商人の宿屋が多くありました。慶安4年(1651)に隣接する梅屋町で由井正雪による慶安の変が起こると、伝馬町に本陣・脇本陣が移され、人宿町は宿泊地としての機能を失いました。この事件以後、旅人が伝馬町以外に宿泊する事は禁止されました。
㊨ 本通川越町 ( 本通10丁目小幡同源堂前南入東 )
㊧ 新通川越町・ ( 本通10丁目小幡同源堂前南入西・新通手前 ) ㊨ 堤添川越町 ( 本通西町バス停(中町方面行)の西 )
川越町と合わせて三川越町(川越三町とも)と呼ばれていました。町名は本通九丁目の西隣にあり、安倍川の川越人足(が居住したことに因みます(『駿河国新風土記』より)。
天保13年(1842)の『本通川越町町絵図』によると町の長さは68間余り(約80m)に66戸が住み、川越人足は29戸だったそうです