恒例となりました「 駿 府 96 ヶ 町 町 名 碑 め ぐ り & 弥 次 喜 多 展 」が開催されました。
11月3日(火・祝) 「駿府96ヶ町町名碑めぐり&弥次喜多展」が開催されました。
駿府96ヶ町にちなんで9月16日に定員96名で行うウォークですが、今年は新型コロナ感染防止対策で開催時期を11月に移し、定員を50名に減らしての実施となりました。
当日は前夜からの雨もあがり日差しが眩しいような秋日和となりました。受付を済ませた方から5人ごとのグループを組み順次スタート、参加者の総数は49名。ガイドは10人の会員が担当、3会員がスタッフとして参加しました。
コースは、市民文化会館横の横内御門をスタートして北街道→きよみずさん通り→府中宿東見附→伝馬町通り→家康公の散歩道→浅間通り→ゴールは静岡浅間神社境内市文化財資料館、約4.7㎞のウォークです。
市民文化会館横広場をスタートし、横内御門跡を出て水落町側に進みました。水量豊かな駿府城の堀の水はここ“水落”で一カ所に集まり、横内川に流れ落ちます。横内川はおよそ400年前、駿府城築城に際して造られた運河でした。水落を起点に北街道沿いに巴川に至る延長約3㎞、江尻湊から船荷を巴川畔の川合で横内川の舟に積み替え、府中までの運搬水路として使われました。また分流石によって流れを分岐し近郊農村への灌漑用水や市民の生活用水としても大きな役割を果たしてきました。北街道の家並みに沿って流れていた横内川は、交通量の増加に伴い道路工事が進められ現在は全線暗渠となっています。
今回ガイドした町名碑の最初は“横内町”です。1700年初まで駿府には町奉行所が二カ所あり、そのうちの一つが横内御門外に置かれた「横内 町奉行所」です。周辺は武家屋敷が多く、それに続く町屋の部分を“横内町”といいました。次の町名碑は “横内田町”です。駿府96ヶ町東の外れに当たり、道を挟んで田の字に10軒程家が建っていたことからその名がついたとか。脇のプレートには家康公と地元民のエピソードが書かれています。ここで南に曲がり“きよみずさん通り”に入ります。清水寺の前を南北に走るこの道は中世東海道(現北街道)と古代・近世東海道を結ぶ役割を果たしてきました。昭和の中頃までは商店が並び映画館が二つ建つほど賑わう通りでした。
きよみずさん通りを抜けた先、静岡鉄道の電車道に並ぶ国道1号線の陸橋下に「府中宿東見附」の碑があります。府中宿は江戸から44里24町45間(175㎞)、品川宿から19番目の宿場で、東見附から新通川越町の西見付まで3.6㎞、27の町で構成されていました。古代から「横多」と記されている“下横田町”→今川氏の時代から猿引き(猿回し)が住んでいた“猿屋町”→院内師(祈祷師)が住んだ院内町→上横田町→御用鋳物師の作業場があった“鋳物師町”→家康公の祖母源応尼の菩提寺のある“花陽院門前町”、道路を挟んで向かい側の「久能山東照宮道」と東海道を西に向かって歩くうちに“上・下伝馬町”です。
”伝馬町”の名は宿に伝馬の機能が設けられていたことに由来します。宿場の重要な役割として、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場まで運ぶという業務がありました。そのため宿場は、宿泊施設と次送り業務を行う問屋場が中心となっています。朱印状持参人は無償で、そのほかの人たちはお定め賃を払って人馬を雇うことができました。貫目改所は、街道を往来する荷物の貫目(重量)の検査をします。東海道では品川、駿府、草津の3宿に設置されました。参勤交代制が確立し交通量が増えるに伴って宿場は発展し、江戸時代中期には2軒の本陣と脇本陣、問屋場、貫目改所、旅籠43軒があったとのことです。
伝馬町から江川町交差点方面に行く途中に「西郷・山岡会見の地」があります。1868年3月14日薩摩藩邸で行われた西郷隆盛と勝海舟との会談に先立つ5日前、ここ松崎屋源兵衛宅で行われた山岡鉄舟と西郷隆盛との会見で、江戸城の明け渡し、幕府の軍艦・武器の引き渡し、慶喜公の処遇などが合意されたのです。山岡鉄舟が慶喜公の意を汲んで尽力したここ駿府での会談は明治維新史の中でも特筆すべきことです。
ここまででおよそ1時間半、“新谷町”と呼ばれた一画で休憩タイム。駿府城が拡張されるときに代替え地として小梳神社の神職「新谷氏」に与えられたことから、その名前をとって町名がつけられました。休憩後は城代橋を渡って家康公の散歩道に向かいました。
「府中 弥次・喜多像」は2002年『東海道中膝栗毛』発刊200年記念で建てられました。像の傘にあるマークは、熊手と貞の字を組み合わせたもので、膝栗毛の作者である十返舎一九が使用した印形です。一九は、駿府両替町で町奉行所同心重田家の長男として誕生。いろいろな経緯を経て戯作者になりました。代表作品である『膝栗毛』シリーズは、名所・名物紹介に終始していた従来の紀行物と違い、宿場毎に風景や人情話、その地の食べ物、弥次・喜多のユーモラスな掛け合いやいたずら騒動がコミカルに描かれており、爆発的人気を呼びました。文章もさることながら挿絵が面白く、一九が自分の足と目で確かめたリアル感が読者の旅情を誘ったのでしょうか。まさに江戸庶民の旅ブームの火付け役です。
家康公の散歩道にはいくつもの像や碑があります。それらを話題にしながら四足御門跡から中町に出て、いよいよウォークも終盤。お土産で協力をいただいている『本家葵煎餅』前で、葵の御紋が入った瓦煎餅誕生のエピソードなどを紹介しました。そして筋向いのお蕎麦屋さん前にある“馬場町”の碑、山田長政像と進み、町巡り最後は “宮ケ崎町”の町名碑でした。1605年までは浅間神社の社領だったそうです。町名は大歳御祖神社の社前に位置する町であることに由来します。
歩くこと2時間40分、赤鳥居をくぐって文化財資料館にゴールイン。この後、参加者はお土産を手に、自由に『弥次さん喜多さん 駿州の旅』企画展をご覧になりました。
「水落を始めいろいろな町の名の由来を知ってなるほどと思った」「この道路の下に今も川が流れているなんて、想像するとたのしい」「今まで説明の碑を読むことはなかったので問屋場とか貫目改所とかの働きが分かった」「十辺舎一九と弥次喜多が静岡縁とは知らなかった。20年も続いたシリーズは凄い」「散歩道の夏みかん、収穫しないなんて勿体ない。うまく商品化すればいいのにね」「地名がつくにはそれなりの訳があることが分かって、ほかの町名も見てみようと思う」「昔の様子の写真が懐かしかった。どこもかも風情がなくなってしまってさびしいね」などが、ウォークの途中で聞かれた感想です。
新型コロナ感染防止対策のため、参加者5名を1グループとし、ガイドはマスクを着用しての対応でしたが、特に不都合なく予定時間内に到着しました。今回も申込日初日で募集終了となる人気イベントとなり、96ヶ町手拭いやおみやげの提供、ゴール後に市文化財資料館の企画展鑑賞があり、久しぶりの参加者にも好評でした。
市文化財資料館の日本遺産認定記念「弥次さん喜多さん駿州の旅」は、12月13日(日)まで、引き続き開催中です。