竹千代像前から大河ドラマ館まで。「徳川家と駿府歴史の地を巡る !!」 7月1日(土)開催しました。
令和5年7月1日(土)、静岡県教職員互助組合主催 NHK大河ドラマ「どうする家康」放映にあわせ「徳川家と駿府歴史の地を巡る !!」が開催されました。コースは、静岡駅竹千代像前・小梳神社・静岡市歴史博物館・戦国末期の道・二の丸堀石垣等・四足御門・浅間通り・葵煎餅本家・駿府御用水・二加番・山田長政像・静岡浅間神社・どうする家康 大河ドラマ館まで約2.7km、約2時間のコースで、スタート時は大雨でしたが竹千代像前に45名の参加者が集合、駿府ウエイブのガイド6人がそれぞれ順次スタートしました。ご案内箇所の一部をご紹介いたします。
竹 千 代 像 前
竹千代は松平家当主ながら8歳(1549)から19歳(1560)までの多感な時期を今川氏の人質というより「政務見習い」として駿府で過ごし、臨済寺の雪斎から多くのことを学んだとされています。(竹千代時代)
桶狭間の戦いで義元が討たれた(1560)後、織田信長と同盟を結び三河を治め、今川家が滅びると遠江を領国とするが、領地を接する武田信玄との攻防に神経をすり減らすこととなります。1582年武田家を滅ぼした後、駿河を手に入れます。その直後、本能寺の変で信長が没すると甲斐・信濃を平定、天正駿府城を築き浜松から駿府に拠点を移しました。(五ヶ国統治時代)
その後秀吉と対立するも、秀吉の妹を正室にすることで和睦し、豊臣政権の大老として重きをなしました。秀吉が北条氏を滅ぼし、関東に移封されると、今川、武田、北条の遺臣を多く登用し、先進的領国経営で対処しました。秀吉没後(1598)関ヶ原の戦い(1560)に勝利し江戸幕府を開きました(1603)。わずか2年で秀忠に将軍の座を譲り、大御所として駿府城に移り(1607)、大坂の陣(1615)で豊臣氏を滅ぼし、徳川の覇権を確立。(大御所時代)その後、254年に及ぶ世界史上類を見ない平和な時代を作り上げました。
小梳神社
小梳神は昔、少将井社ともいわれ、今川家の崇敬を集めた神社でした。家康公が今川氏の人質として駿府に来た時、まずこの社に立寄り、武運長久を祈願し、衣服を整え義元に挨拶に向かったといわれています。
歴史は古く当初小梳という地(駿府城三ノ丸、現・城内バス駐車場当たり)にあったといい、平安時代の『延喜式神名帳』に登場します。駿府城が出来ると、城内三ノ丸の東南隅に取り込まれましたが、寛永8年(1631)駿河大納言忠長が城外の新谷町(しんがいちょう・現在のペガサート付近)に移しました。
延宝3年(1675)新谷町から今の場所に移転。現在の神社の近くには駿府代官屋敷があり、小梳神社の裏手には、地方から集められた米を保管する米蔵が立ち並んでいました。また代官所付近には、御用茶として献上された足久保茶を保管する御茶小屋が近世初頭から正徳年間(1711-16)までありました。
歴史博物館で重ね捺しスタンプを楽しむ参加された方々。
静岡市歴史博物館、葵煎餅本家、静岡いいとこ浅間通り店、どうする家康 静岡大河ドラマ館の4ヶ所のスポットを巡りスタンプを重ね捺しすることで、駿府のまちをイメージした風景画が完成します。
駿府で初めて発見された戦国時代末期の道と武家屋敷の石垣
歴史博物館の建設に伴う発掘調査で、家康公が三ノ丸の堀と石垣を築造する以前の戦国末期(天正期)の道とその両脇の石垣が見つかりました。家康公がが40歳代のとき築城した天正期駿府城は、今の駿府城の二ノ丸までと推定されています。
道は幅 2.7m、長さは 30mを超えます。幅 2.7mは大路にしては狭く、小路にしては広いとの見解です。道の表面は、土に砂利を混ぜ 10~25 ㎝の厚さを締め固めています。石垣は、南側で地上 2 段(部分的に地下 1 段)あり北側は 1 段しか残っていません。
ただし、石垣の後ろ(裏込め)に石垣の固定や雨水の浸透層にするために入れる川原石は、石垣よりも高く残っているため、本来はさらに 1~2 段の石垣があったものと推定されます。石垣には入口がなく、30mを超える 1つの大きな屋敷地であることから、重臣クラスの屋敷地であった可能性が考えられます。
※駿府城の発掘調査では今川期の遺構も発掘されていますが石垣を使用した遺構は見つかっていないことから、戦国末期(天正期)の石垣と考えられます。
駿府古絵図 碑
静岡県立中央図書館が所蔵する「駿府古絵図」を碑にしたもの。家康公在城時代の駿府城を囲む武家屋敷に住んでいた武士の名前が記されています。ただし、内容が少し異なる同様な絵図が残されていて、いずれも400年前のものとは考えにくいことから、現在では、江戸時代後期に家康公時代の城下地図を研究しようとした人達が、それぞれが調べた絵図を作ってまとめようとしたが、なんらかの理由で完成に至らず、途中の図が残されたのではないかと考えられている。
山田長政像
天正18年(1590)頃~寛永7年(1630)、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門。
生まれは馬場町とされ、沼津藩主・大久保忠佐に仕え、駕籠かきをしていたが、1612年に朱印船で長崎からシャム(タイ)に渡ったと言われています。
後に日本人傭兵隊に加わり、頭角を現しアユタヤ郊外の日本人町の頭領となり、日タイの貿易のみならず、近隣諸国にも商船を送り、ヨーロッパの企業との経済戦争に勝ち続けた。またアユタヤ国王の護衛兵としても活躍、外敵と戦い、数々の武勲をうちたて、国王は王室内での最高の官職を与え、長政は立身出世を喜び、故郷の浅間神社に「戦艦図絵馬」を奉納しました。
静岡いいとこ浅間通り店前で重ね捺しスタンプの順番を待つ参加者。
静岡浅間神社
静岡浅間神社は、南アルプスから続く賎機山の南端に位置し、安倍川、藁科川が合流し、静岡平野に出る扇状地の「扇頂」に位置しています。神部神社(約2100年前)・浅間神社(約1100年前)・大歳御祖神社(約1700年前)の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と称され、静岡の総氏神さま、駿河の大社として広く信仰されています。
現在の社殿群は、徳川幕府が総力をあげ文化元年(1804)より60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造されたもので絢爛豪華な建造物群が26棟、花鳥霊獣の彫刻類は繊細を極めています。静岡市内に残る数少ない江戸時代の木造建築物群を後世に遺すため、前回の修理から40年を経て、現在20年ほどをかけて漆の塗り直しを中心に、金具を始め部材の修理等、改修工事がなされています。
完成した重ね捺しスタンプ。
静岡市歴史博物館、葵煎餅本家、静岡いいとこ浅間通り店、どうする家康 静岡大河ドラマ館の4ヶ所のスポットを巡り各所1色ずつのスタンプを重ね捺しすることで、駿府のまちをイメージした風景画が完成しました。
参加された方々は、この後『どうする家康 静岡 大河ドラマ館』を鑑賞された後、昼食をはさみ、久能山東照宮へ向かわれました。
参加された皆様からは「昔、県庁まで用事で来ることがあった時、遠く感じましたが、今日は所々で説明を聞くことができここまで近く感じました。」「静岡駅の近くに家康公ゆかりの神社があったなんてビックリです。」「朝方の雨で参加をどうしようかと思いましたが、途中から雨も上がり、説明を聞くことができ、楽しく歩けました。」「静岡駅から浅間神社まで歩くのは子供のころ来た以来です。説明も聞け短く感じました。」等々の感想を頂きました。雨の中お疲れさまでした。