観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

講演会『 浮 世 絵 の 知 識 と 東 海 道 の 浮 世 絵 の 魅 力 』、2月16日(金)開催されました。

 

2月16日(金)駿州の旅日本遺産推進協議会主催の講演会『浮世絵の基礎知識と東海道の浮世絵の魅力』をテーマに

静岡市東海道広重美術館の山口拓海氏を講師にお迎えし、興津生涯学習交流館において開催されました。

 蒲原宿、由比宿、興津宿、江尻宿、府中宿、丸子宿、岡部宿、藤枝宿の観光ボランティア団体のガイド

スキルアップのための講座とし39名のガイドが受講しました。講座の一部をお知らせします。

 

 

「浮世絵」の「浮世」とは「憂世」から派生した言葉で、人々が生きているこの世の中のことで、

この「浮世」を描いたもので、17世紀後半に誕生し、その当時生きていた市井の人々の生活の姿や文化、

流行など、興味を持った物事があるがままに、現代のイラストレータータッチで描かれています。

 

18世紀後半には、鮮やかな多色刷が編み出され、浮世絵文化が開花し、絵師、彫師、摺師の分業体制も

整っていくことになり、この分業により、早く、大量に、廉価の浮世絵が流通することになります。

 

18世紀半ばの鈴木春信から始まり、ジャンルも美人画、役者絵、武者絵のほか、旅行ブームに伴い名所絵、風景画、

18世紀末から19世紀初頭にかけての喜多川歌麿、東洲斎写楽、

19世紀半ばまでの葛飾北斎、歌川広重らの時代の、およそ100年間にわたる浮世絵の黄金時代はを迎えました。。 

 

 

 

歌川広重は本名を安藤重右衛門といい、定火消同心 源右衛門の長男として江戸八重洲河岸に生まれました。

文化6年(1809)に両親を相次いで亡くすと13歳で家業である火消を継ぐことになりますが、

幼い頃から絵を好んでいたこともあり、文化8年(1811)頃に浮世絵師 歌川豊広に弟子入りします。

 

“広重”の名は師匠の豊広から「広」、本名 重右衛門から「重」を1字ずつ取った画号という事です。

その後家業を身内に譲り画業に専念し、天保4年(1833)頃には東海道の宿場とその周辺の風景を

抒情的に描いた名所絵(風景版画)、『東海道五拾三次之内』(保永堂版東海道)を刊行します。

 

この作品は当時の旅ブームに乗って大ヒットし、広重は一躍、人気絵師の仲間入りをすることになりました。

その後、生涯で20種類以上の「東海道シリーズ」を手掛けたと言われています。

 

 

 

 

   概要 画像

       『隷書 東海道 鞠子宿』                    『東海道五拾三次之内(保永堂版)蒲原宿』 

 

広重描いた名所絵の中に現在では雪が降らない土地の雪景色があります。

これはセット販売する時に見た目に変化を持たせるための手法と考えられているようです。

また、あるはずの風景が描かれてなかったりしますが、これは、画面上の他の風景を強調するためと思われます。

風景画と言っても「写実」ではなく、見る方の脳裏に残る「印象」を重視した画風と言えるのではないでしょうか?

 

 

 

 

浮世絵の価格は、絵師、彫師、摺師の分業による大量生産により、1枚3~500円程度であったようです。

専門図書の販売元とは異なり、絵草紙屋という娯楽短編小説を扱う版元といわれる店舗で扱っていました。

令和6年のNHK大河ドラマの主人公「蔦屋重三郎」の耕雲堂は店舗の屋号です。

広重の作品の中で、最も売れた『東海道五拾三次之内』は、摺色の異なるもの、文字が異なるもの等が数種類あることを考えると、推定で約10,000部程度刷られたのではないだろうか?との見解も示されました。

 

 

今迄の各宿場ごと習得する研修と違い、浮世絵にフィーテャーした研修であったため、

新たなガイドスキルを習得できたのではないでしょうか?

身近な浮世絵の講演会でしたが、身近であるがゆえに質問も多く、1時間45分が短く感じられました。

浮世絵、広重に関しての、新たな知識も習得でき、これからのガイド活動に即役立つ講演会でした。

 

 

 ※ 藤枝市・静岡市で共同申請を行った『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~』が令和2年度の日本遺産に認定されました。藤枝市、静岡市、両市商工会議所等からなる「駿州の旅日本遺産推進協議会」は各宿場のサインの設置、観光客に対応するガイドの基礎研修会等を令和2年以降行っています。

 

 

駿州の旅日本遺産推進協議会のHPはこちら。

静岡市東海道広重美術館のHPはこちら。