静岡市歴史博物館プレオープン記念講演会「今川から徳川へ 沸き立つ駿府の町」が開催されました。
静岡市歴史博物館プレオープン記念、館長の中村羊一郎氏の講演会が8月21日開かれました。
8月21日は「静岡県民の日」です。郷土について理解を深め、静岡県を誇りに思う心をはぐくむ機会となるように、静岡県の誕生日(明治9年8月21日)を、県民の日と制定しています。
今年7月にプレオープンし、来年1月開館予定の静岡市歴史博物館・館長の中村羊一郎氏の講演会を開催しました。
申込み開始初日に定員100名が埋まり、参加希望者にお断りする事になり、静岡市歴史博物館と講演内容に対する期待の程が伺えました。
講演内容を少しお伝えします。
「今川から徳川へ 沸き立つ駿府」、副題は~小京都の意味を芸能の面から考える~、とあり、キーワードは「風流(ふりゅう)」です。
今川時代の駿府の芸能
観阿弥の浅間神社での演能(1384)、連歌師宗長が尺八の名手であり、今川氏親が尺八、猿楽、田楽など禁じた例など。 (とがもない尺八を まくらにかたりと投げ当てても さびしや独寝(ひとりね))「閑吟集」
また山科言継の「言継卿記(ときつぐきょうき)」での女房狂言の記述などにより、当時の駿府が、治安が安定して宿泊場所もあり、金回りの良い時代であったと紹介。また、建穂寺と浅間神社の稚児舞楽の記述により、浅間神社の廿日会祭は、2月18日に建穂寺で上演された稚児舞楽が一日おいて20日に浅間神社に勧進したので、廿日会祭と言われたのでは?それが今も続く桜の花が咲く4月にしたのは、今川氏による貴族の美意識の勧進興業ではなかったかと。
(芸人を呼び寄せる城下あげてのみやこぶり、風流、まさに小京都ではなかったか)と紹介されました。
駿府城築城の時代
徳島県名西郡曽我神社の神踊りに、(切石を 積みや重ねて七重上りの天守は 先づは見事な御城かな)
と駿府城をうたっている。
滋賀県甲賀市の雨乞踊にも
(駿河の城を見物すれバ 堀の深さが七十五ひろ それにそりはし やらあ見事~ それさし過て 七重のてんしへ上りてミれバ せんげのおやまハやら見事~)
遠く離れた地域でのお祭りに伝承されている歌に、駿府城や浅間神社の駿府の地名が出てくるなど、築城時の駿府の影響力が大きかったと納得できる。
大御所・家康と伊勢踊
慶長12(1607)家康が駿府城に江戸から移り、このころ大流行したのがタバコや「かぶく」こと。駿府城築城のために集められた男たちの遊楽の場を町割りに組み込み、二丁町の始まりになった。この遊里が新しい芸能の発信元。「駿河土産」に遊女街を移転する意見に対し家康が反対して町奉行彦坂九兵衛に命じたエピソードの紹介をされました。
慶長19年に京都で伊勢踊が大流行。翌元和元(1615)年3月駿府でも大流行。同月30日に家康はこの踊りを禁止。4月に大阪夏の陣で5月に豊臣家の滅亡。ある種の集団的狂躁現象であった。家康時代は、金と権力のある駿府なので、伊勢踊りが流行ったと。
三代家光になっても伊勢踊も含んだ風流は流行。伊達政宗が家光の前で近侍の小童に躍らせた木曽躍の一部の詞
(竹のキリヨノタマリ水、スマスニコラス、スマスニコラス、デスイラス)
静岡市の有東木女踊りに (身延御山の小池の水は、澄まず濁らず出ず入らず)
と似た歌詞がある。また、有東木の盆踊りに用いるコキリコやササラにつけられる白紙の房が、幣束をさした、伊勢踊りの名残りではと。
有東木の盆踊り
城主不在後の駿府は
徳川忠長が駿府城主(~1631)後は、駿府のまちは権力や金もなくなり、土木工事なども減り、勢いがなくなり、踊りや文化も衰退していった。
最後に中村羊一郎氏は、かつての華やかな沸き立っていた駿府を目指し、現代の静岡のまち興しに、静岡市歴史博物館が一役買い、元気と希望をもっていただけるのではと期待をしていると。
参加者から、小京都の具体的記述のものがあれば?と質問があり、小京都ではなく、大静岡と言われるような静岡にとの説明に大きな拍手が沸いた。
講師の中村羊一郎氏は東京教育大学を卒業後、母校である静岡高校で日本史の教鞭をとられ、靜高100年史の編集を担当したことがきっかけで、静岡の歴史から離れられなくなったそうです。静岡の伝統芸能、民俗学、お茶文化などに造詣が深く、数々の本も出版されています。色々な講演をまたお聞きできる機会があることを願っています。有難うございました。