『 駿府九十六ヶ町町名碑めぐり 』と講演会『 駿府と渋沢栄一 』を9月29日(日)開催しました。
9月29日(日)家康公が作った町割り巡るウォーキングイベント「駿府九十六ヶ町町名碑めぐり」と講演会「駿府と渋沢栄一」開催しました。
今年7月の新紙幣の10,000円札に描かれ、明治初年静岡に滞在した「渋沢栄一」のゆかりの地と駿府に残る江戸時代の金座、銀座跡を主に報告します。
コースは、静岡市役所を出発、中心市街地の町名碑をめぐり、約3kmのウォーキングコースです。参加者62名、9グールプに分かれスタートしました。
呉服町 (駿府96ヶ町) 今川氏の時代からここに絹座、木綿座があり、「府の正中で往古よりの町」「府の本町」といわれ、駿府の中心的存在でした。ただ、呉服町が町名となったのは、大御所となった徳川家康公が慶長14年(1609)に行った町割の時からのようで、家康公の「呉服所」(衣服などを用達する呉服屋)があったことに由来するとも言われています。
呉服町、紺屋町には江戸から明治時代にかけて創業した老舗が現在も営業を続けています。ふしみや1607年(慶長12年)徳川家康公と主従関係にあった初代が京都・伏見から移り住んだのが創業の始まりと言われ、現在でも化粧品を中心とした商品の販売をしています。「三保原屋・貞享4年(1687)創業」、「竹茗堂・天明元年(1781)創業」、「小山園茶舗・慶応元年(1865)創業」、「蒲菊・明治22年(1889)創業」、「オオイシ文具店・慶応元年(1865)創業」、「平野屋・延宝元年(1674)創業」、「田丸屋・明治8年(1876)創業」。
紺屋町(駿府96ヶ町) 紺屋町の名は、江戸時代初めに染物師(紺屋)の町として整備されたことに由来します。天領を治める代官屋敷もありました。慶応4年(1868)5月駿河府中藩が発足し代官所は廃止されましたが、屋敷はそのまま残り藩に引き継がれました。
下桶屋町(駿府96ヶ町) 江戸時代に、桶を作る専門職人が居住していた区域のうち、林惣右衛門という桶職人の棟梁が住んでいた町を上桶屋町(現在の茶町と土太夫町に接した町)、もう一方を下桶屋町(現在の昭和町と紺屋町)と呼んでいました。
下魚町(駿府96ヶ町) 魚介類を扱う商人が集まり、慶長年間(1596~1615)に城中御用の魚問屋が置かれました。城から離れているため、一部が金座のあった付近に移されて上魚町、この地は下魚町となり、地元の人々からそれぞれ「かみんたな」「しもんたな」と呼ばれました。
宝台院 宝台院は家康公の側室で2代将軍秀忠の生母西郷の局の菩提寺です。明治維新後、15代将軍徳川慶喜が謹慎した寺院です。戊辰戦争が終わった明治2年(1869)9月28日謹慎が解かれ、10月5日に駿府代官所跡に移るまでの1年2ヶ月、宝台院の庫裡座敷で謹慎の日々を送りました。
常慶町(駿府96ヶ町) 常慶町は松下常慶(浄慶とも書く)が居住していたことに因んだ町名で、昭和20年(1945)まで教覚寺境内だけで1ヶ町を成した珍しい町でした。
藤右衛門町(駿府96ヶ町) 町名の由来は、家康公にゆかりのあった藤右衛門という人が住んでいたことによります。
七間町 (駿府96ヶ町) 東海道の道幅は通常4~5間とされていましたが、①七間町は通りの幅が7間(13m)。 ②専売品7品目(米、油、魚、木綿など)の座(同業組合)あったため七間町(七拳町)とも。駿府のメインストリートで東海道の道筋に面し、木工品、寄木細工、竹細工、漆器の店が多く、オランダの商務員が買い付けに来た記録があります。
両替町(駿府96ヶ町) 町名は慶長11年(1606)この地に銀座が設けられ、金銀の両替商が置かれたことに由来します。当時は両替町二丁目に銀座役所が置かれ、他は役人の居宅であったとされています。家康公が京都伏見銀座を駿府に移しましたが、慶長17年(1612)には江戸の京橋へ移されました。江戸時代の両替町は飲食店が立ち並んでいた訳ではなく、現在のような歓楽街に発展していったのは明治以降のことでした。
駿府銀座の碑 駿府の銀座は 慶長12年(1607) に 家康公が駿府城に入った際に、駿府城の蓄財としての銀貨を鋳造する目的で設置されました。町名の“両替町”は 銀座の業務として銀地金を買い入れ銀貨と引き換える両替業務から来ており、この銀座周辺には多くの両替商が集まっていました。駿府の銀貨鋳造所は 慶長17年(1612) に 江戸(現在の東京都中央区銀座)に移転しました。
静岡銀行本店(登録有形文化財) この建物は三十五銀行が昭和6年(1931)に竣工した本店で、鉄筋コンクリート造地下1階・地上3階、通りに面する二面はギリシャ、ローマの様式を基調として、エンタシスとよばれる膨らみがある円柱を4本持つ均整の取れたデザインです。設計は静岡県出身で市役所本館や県庁本館を設計した中村与資平氏、静岡大火・静岡大空襲にも耐えて、1998年に国登録有形文化財になりました。
金座跡、日本銀行静岡支店 慶長12年(1607年)家康公が京都伏見から後藤庄三郎光次を呼び寄せ、金座を設けて小判の鋳造を命じました。広さは約2,900坪で、小判の鋳造と全国の各藩で鋳造された小判の品質鑑定が行なわれ、合格したものは『後藤庄三郎』の極印が授けられて、天下の通用金となりました。日本銀行静岡支店は昭和18年(1943)現在の青葉シンボルロードと昭和通りの角に全国で23番目の支店として開設され、昭和20年6月の静岡大空襲後、呉服町に移転その後昭和47年(1972)現在の金座町にて営業を開始しました。
上魚町(駿府96ヶ町) その狭い道沿いに魚屋・乾物・青物屋などのあらゆる日用品の商店が密集していて、さながら「流通センター」のようだったそうです。市民からは『かみんたな』と呼ばれていました。
札ノ辻町 (駿府96ヶ町) 江戸時代この地に「高札場」があったことに由来します。 高札場とは、幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書き掲げておく場所でした。周知徹底のために高札の文面には、一般の法令では使われない仮名交じり文が用いられ、更には当時の幕府は法律に関する出版を禁じていましたが、高札に掲示された法令に関しては「万民に周知の事」と言う理由で出版が許され、高札の文章は寺子屋の書き取りの教科書としても推奨されていました。 令和4年(2023)3月復元された高札が設置されました。
下石町(駿府96ヶ町) 駿府城に家康公が在城していた頃、米座と呼ばれた穀物の販売がこの町で行われており、その商人たちが住んでいたことに由来した町名です。駿府にはこの穀物を商う町が2か所ありました。現在も町名が残っている上石町一~二丁目と、下石町一~三丁目です。駿府では「上」が北、「下」は南にあることを意味しています。
合計11か所の町名碑(紺屋町、下桶屋町、下魚町、常慶町、藤右衛門町、七間町、上魚町、呉服町、札ノ辻町、両替町、下石町)と周辺の名所旧跡等をご案内し、約1時間30分のウォークを終了しました。
引き続き、静岡市歴史博物館・学芸員・宮崎泰宏氏による講演会「駿府と渋沢栄一」を常磐町のアイワビル4階にて開催しました。講演の骨子を報告します。
「パリ万博」から帰国した渋沢栄一は12月23日宝台院に謹慎中の慶喜公を訪ね、約2年ぶりに拝謁し帰朝の報告を行っています。翌朝連絡があり藩庁に上り、「藩勘定組頭」の辞令を受けた渋沢は、27日伝馬町の旅籠を引き払い、呉服町5丁目の川村方に移ると、一気に提案書をまとめ上げ、明治2年1月1日駿河府中藩・勘定頭平岡準蔵に商法会所の仕法書と、計算書を提出し、認められ商法会所が設立されました。明治2年(1869)1月16日、渋沢栄一が提案した「商法会所」は、駿府代官所跡に発足しました。「商法会所」とは、銀行、商社、保険会社をミックスしたような組織で、渋沢は商法会所の頭取に就任しました。
戊辰戦争が終わった明治2年(1869)9月28日慶喜公は謹慎が解かれ、10月5日に駿府代官所跡に移ることになります。それに伴い「常平倉(商法会所)」は駿府代官所跡から教覚寺に移され、それと共に、渋沢一家も教覚寺に移り客殿に住みました。教覚寺を斡旋したのは、常平倉を実質運営していた駿府商人の筆頭格だった豪商・北村彦次郎でした。北村は茶町1丁目の質商で、町頭を務め、緑茶の店を横浜に出店、駿府のお茶を世界に広めた人でもありました。
今年7月の新紙幣の10,000円札に描かれ、まだ記憶に新しい令和3年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」のストーリーのおさらいを含め、判り易く、楽しくお話しいただきました。静岡での生活は10ヶ月ほどでしたが、宝台院、駿府代官所跡、教覚寺などゆかりの地のフィールドワーク直後の講演会でしたので「駿府と渋沢栄一」に理解を深めることができたひと時であったと思います。
3時間に亘るウォーク&講演会、参加者の皆さん、講師、ガイドの皆さんお疲れさまでした。