2024年12月14日(土)「静岡の戦争の記憶を巡る街歩きツアー」が開催されました。
SPACの秋から春にかけてのシーズン24-25 #2『象』の関連イベントとして、「平和学習プログラム/静岡の戦争の記憶を巡る街歩きツアー」が開催されました。
このツアーでは、「駿府ウエイブ」のスタッフがガイドし、参加者7名と静岡市街地や駿府城公園周辺にある戦争の歴史「戦争遺跡」を巡りました。
静岡芸術劇場「SPAC秋→春のシーズン2024-2025」上演『象』
<街歩きルート>
①静岡平和資料センター
②埋め立てられた駿府城三ノ丸堀
③静岡市歴史博物館 (葵文庫跡)
④静岡県庁 別館21階 (富士山展望ロビー)
⑤静岡赤十字病院前 (焼け残った楠)
⑥静岡銀行本店
⑦不去来庵
⑧明泉寺 (焼け残った蘇鉄)
⑨矢澤煉瓦蔵
⑩静岡市役所本館
⑪静岡御用邸跡
⑫日本生命ビル・江川交差点
~静岡市には、第二次世界大戦末期に次のような空襲がありました~
静岡大空襲(1945年(昭和20年)6月19日深夜~20日未明)
清水空襲(1945年(昭和20年)7月7日)
静岡地区で15回、清水地区で11回、計26回の空襲を受けました。
①静岡平和資料センター(伝馬町中央ビル2F)
ビルの一室にあるセンター内は展示品と資料がたくさん置かれていました。センター長のお話では、センターは静岡空襲の記録を残すために市民有志で設立され、現在200名ほどの会員とボランティアで運営されているが、受付当番のシフトがまわらず、開館時間が毎週金・土・日の11:00〜16:00に限られてしまう。7年前にリニューアルし、展示物より文字が多いという指摘もあるが「物は語らない」から、(説明)文字が多くなるとのことでした。
一角だけぽっかりとあいた白い壁に映し出される20分ほどの映像を鑑賞しました。なぜ静岡が空襲をうけたのか、焼夷弾とはどんなものか、米軍がどれほど綿密に調査と準備をしていたか、とてもわかりやすく説明されていました。著作権の関係でここでしか観ることができないそうですが、多くの方に観て欲しいと思いました。
②埋め立てられた駿府城三ノ丸堀
1909年(明治42年)に三ノ丸で師範学校が建設される際、鷹匠町寄りの堀の約50%が埋め立てられました。その後、1925年(大正14年)に教育会館が建設されるため、三ノ丸櫓跡の石垣が取り壊されました。
③静岡市歴史博物館 (葵文庫跡)
米軍の空襲で市の大部分が焦土となった中、葵文庫は奇跡的に建物も蔵書も無事でした。この時の館長、加藤文庫長の献身的な消火活動が功を奏しました。
④静岡県庁 別館21階 (富士山展望ロビー)
市中心部が焼夷弾による攻撃を受け、多くの建物が破壊されました。静岡県庁もその影響を受けましたが、建物は奇跡的に残りました。
⑤静岡赤十字病院前 (焼け残った楠)
静岡空襲で静岡赤十字病院前の「日赤前のクスノキ」は焼けながらも生き延びました。空襲で市街地は一面焼け野原となり、この木も瀕死の重傷を負いましたが、3年後の春、黒く炭のようになっていた幹から青い芽が吹き始め、市民に生きる力を与え、「奇跡のクスノキ」と呼ばれるようになりました。
⑥静岡銀行本店
三十五銀行本店として1931年(昭和6年)に建てられました。米軍は、この本店前の呉服町通りと本通りの交差点を中心点として爆撃を行い、その地点を狙って焼夷弾を投下したそうです。鉄骨鉄筋コンクリート造の建物であったため、耐久性があり静岡空襲にも耐え抜きました。
⑦不去来庵
静岡空襲で屋敷と土蔵は全焼しましたが、持仏堂は焼夷弾に突き刺さったものの焼失を免れ、静岡空襲の中心部にありながら焼け残りました。その持仏堂は2000年(平成12年)に国の登録有形文化財に指定されました。お堂壁面の黒い物質は、空襲の猛火で溶け出した伊豆石の硫黄で、「阿弥陀如来の涙」ともいわれています。不去来庵は戦争の記憶を伝える奇跡の建造物です。
⑧明泉寺 (焼け残った蘇鉄)
工事中の去年は蘇鉄の芽吹かざればもしやと憂れひし一年なりき
二年分の勢ひを見せてこの年の蘇鉄は葉数一きわ増せり
早蕨に似たる巻葉の瑞々と蘇鉄の新芽梅雨を浴びゐる蘇鉄の新芽梅雨を浴びゐる
蘇鉄は天保年間(1830~44年)に植えられたそうです。静岡大空襲で、明泉寺の本堂や境内の樹木はすべて焼失しましたが、2年後、この蘇鉄だけが奇跡的に芽を出し、成長を続けたそうです。
⑨矢澤煉瓦蔵
矢沢漆器店の煉瓦造りの蔵は、明治時代に建てられました。1940年(昭和15年)の静岡大火と1945年(昭和20年)の空襲で市中心部は焼け野原になりました。B29が投下した焼夷弾は爆薬ではなく、油脂やテルミットなどの発火物質を使用し、火災を引き起こすことを目的としています。日本の「木と紙でできた 家屋」を焼き尽くすことを目的に開発されたため煉瓦造りのこの蔵は焼け残り、現在はブティックとして使用されています。1940年(昭和15年)までは別に土蔵が2棟ありましたが、大火で焼失しました。レンガの目地は「覆輪目地」で、積み方は「イギリス積み」、そして軒下の「軒蛇腹」も見事な技術で、景観重要建造物に指定されています。
~呉服町商店街~
1957年(昭和32年)に建てられた共同建築ビルは、市浦建築設計事務所を代表に、野生司建築設計事務所と地元の針谷、福島、磯部の各建築事務所が共同で設計しました。防災建築街区は静岡駅から北西方向に延び、旧東海道に沿った呉服町の防火建築帯(1956-1958)に続いて形成されました(1964-1972)。このビルは約60m、4階建てで、街路側に内部廊下を設け、事務所を配置しています。低層階は店舗で、上層階は県住宅公社が所有し、事務所として利用されています。エレベーターと階段により縦動線を確保し、自由度の高い貸室配置が特徴です。呉服町通りの壁面線は計15mで、道路境界線から2mセットバックされています。この後退線は戦前の静岡大火(1940年)復興計画に始まり、戦後の防火帯まで継承されました。田中屋デパートに対抗するために「横のデパート」を作ろうと協力した商人たちの思いが、この街づくりに反映されています。
⑩静岡市役所本館
現在の静岡市庁舎は江戸時代の駿府奉行所の跡地に建てられています。設計は中村與資平、施工は勝呂組で、1934年(昭和9年)に完成しました。この建物は1997年(平成8年)に国の登録有形文化財に指定され、市の第1号となりました。市制100周年記念事業に合わせて耐震補強・改修が行われています。スパニッシュ様式の市庁舎で、ステンドグラスが見られるのは珍しく、地元出身の小川三知が関与したと推測されています。市中心部には、中村與資平が設計した他の登録有形文化財として「県庁本館」と「静岡銀行本店」もあります。
静岡市庁舎の構造はRC造で、地上4階建ての塔屋付きです。ドームの屋根は1945年(昭和20年)に黒く塗られました。昭和20年の空襲後、市の経済部は浅間神社と臨済寺に疎開しました。
⑪静岡御用邸跡
「はるかなるものと 思いし富士の根を のきばにあふぐ 静岡のさと」
⑫日本生命ビル・江川交差点 (解散)
今回SPACの舞台劇「象」の関連イベント、SPAC:企画・駿府ウェイブ:ガイドとして静岡市内の戦跡を巡りました。
戦後80年を迎えるにあたり、街からは戦争の跡が消えつつありますが、世界から戦争は消えておりません。
戦争遺跡を訪れ、歴史を学び、思いを馳せる良い機会となりましたら幸いです。
参加された方からは、今まで知らずに通っていたが、今回「知る」ことができてよかったと感想をいただきました。
参加者の皆さん、スタッフ及びガイドの皆さん、お疲れさまでした。