府 中 宿
一九は、膝栗毛の中で、府中の浅間様稚児舞楽の演目「安摩」で使用される面、
梶原堂、駿河細工、安倍川餅などに触れています。
広重は、東海道五十三次の府中宿の風景を、安倍川の川越しの様子を描いています。
府中 安倍川
駿府の西を流れる安倍川の川越しを描く。安倍川の水深は手前側では人足の胸まできている。画面右下には旅の女性3人連れが川越人足に担がれる。川越しの方法は山駕籠ごと紐で括り付けた輦台越し、平輦台越し、肩車越しとそれぞれ異なる。対岸からは荷馬の川越しや状箱をもった飛脚の川越しなど、様々な川越しが描き分けられる。
古地図で巡る駿州の旅【府中宿編】はこちら。
江戸時代の府中宿の様子
品川から数えて19番目の宿場町です。戸数3,673軒、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠43軒、人口14,071人、宿の町並み長さ約3.050メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》の宿場でした。東海道の中で最大の規模の宿場でした。府中宿は紙子・竹細工・油蒔絵・盆山石などの産地として知られ,七間町などの商家で売られた。また足久保茶は茶町が集散地でした。徳川家康が今川家の人質として幼少期を過ごした地でもあり、晩年には大御所として、ここ駿府から江戸幕府の礎を築きました。
家康が駿府に君臨していた時代は、「駿府九十六ヶ町」と呼ばれる街区が整備され、人口10万人とも12万人ともいわれ、上方(京・大阪)、江戸(15万人)に並ぶ大都市でした。
江戸時代の大ベストセラーとなった「東海道中膝栗毛」の著者、十返舎一九の生誕地でもあります。
江戸時代を彷彿とさせる今の府中は