丸 子 宿
一九は、膝栗毛の中で、立ち寄った弥次さん喜多さんが店の夫婦の喧嘩に巻き込まれ
とろろを食べることができなかった顛末を書いています。
広重は、東海道五十三次の丸子宿を、名物・とろろ茶屋の中で食事する二人連れの旅人を描いています。
鞠子 名物茶屋
丸子宿の名物・とろろ汁を出す茅葺屋根の茶店が舞台である。店の看板には「お茶漬」「酒さかな」と書かれ、店内には川魚を串に刺した巻藁や、軒下に吊るした干し柿が見える。縁台に腰掛けてとろろ汁をすする二人組は「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんのイメージを重ねている。梅の花が咲き、うららかな春の光景である。
江戸時代の丸子宿の様子
品川から数えて20番目の宿場町です。江戸時代は「鞠子宿」と書かれました。戸数211軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口795人、宿の町並み長さ約800メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》比較的小さな宿場町でした。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、手越平太家綱が、奥州征伐の功により、拝領した邑“麻利子”1189年とある。文治5(1189)年、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家綱という駿河の武士に丸子一帯を与え駅家を設けたのが起源といわれ、そののち交通の要衝として重要視されていた。
今川氏親に仕え、丸子・泉ヶ谷の柴屋寺に住んだ連歌師宗長は「丸子という里、家五,六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記しています。(宇津谷記) 江戸時代以前は現在の「元宿」が宿場で、丸子川の流路変更・堤防建設で現在の丸子宿の土地が形成され宿場になった。とも言われている。東に安倍川、西に宇津ノ谷峠を控え小さいながら重要な宿場町でした。松尾芭蕉の句、十辺舎一九の東海道中膝栗毛、歌川広重の浮世絵にも描かれた「とろろ汁」が昔も今も名物である。
江戸時代を彷彿とさせる今の丸子と宇津ノ谷峠は