藤 枝 宿
一九は、中膝栗毛の中で、喜多さんの喧嘩の様子や、名物・山梔子の実で染めた染飯を紹介しています。
広重は、東海道五十三次の藤枝宿の風景を、藤枝宿の問屋場の前で荷物を引き継ぐ様子を描いています。
藤枝 人馬継立
宿場から宿場へ人や荷物をリレー方式で継ぎ送ることを人馬継立といい、藤枝宿の問屋場の前で荷物を引き継ぐ様子を描く。荷物を運び終えた人足は煙管を吹かして一服し、これから出発する人足は馬の荷物を乗せ換え、天秤棒で荷物を担ぐなど準備に余念がない。人馬継立を見守る宿場の役人「問屋役」や帳簿に記録する帳付も描かれている。
古地図で巡る駿州の旅【藤枝宿編】はこちら。
江戸時代の藤枝宿の様子
品川から数えて22番目の宿場町です。戸数1,061軒、本陣2軒、旅籠37軒、人口4,425人、宿の町並み長さ約980メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》の宿場町でした。当初問屋場は1ヶ所でしたが、手狭となり2ヶ所となり、上伝馬町では京都から江戸への下りの荷物を、下伝馬町では江戸から京都への上りの荷物を扱い問屋場での滞留時間の短縮が図られました。近くを流れる瀬戸川には乾期に仮橋が架けられ、通常の水量の時は歩行渡しでした。藤枝宿は、歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城を仰ぐ本多家4万石の田中藩の城下町でもあり、また塩の産地であった田沼意次の所領相良に通じる田沼街道や、高根白山神社への参道高根街道・瀬戸谷街道などの交通の要衝として、また商業地としても栄えました。
江戸時代を彷彿とさせる今の藤枝は