家康公ゆかりの地をめぐる「 東 海 道 江 尻 宿 を 歩 く 」を10月1日(日)開催しました。
2023年10月1日(日)家康公ゆかりの地をめぐる「東海道江尻宿を歩く」が開催されました。
前日の9月30日(土)清水テルサにて、散策が楽しめる前段講座を開催し、20名の方にご参加頂きました。駿府ウエイブガイドが映像やスライドを使い約2時間、ご説明させて頂きました。
10月1日(日)、散策当日はお天気にも恵まれ、参加者は30名、駿府ウエイブガイド5名がご案内させて頂きました。
コースは、清水テルサを出発し江尻宿東木戸から西木戸を抜け桜橋の文殊稲荷神社まで、約2時間半のコースです。
江尻宿は、東海道五十三次の品川から数えて18番目の宿場です。天保14年(1843)には、宿内家数1340軒、人口6,498人で、東海道五十三次の宿場の中では、8番目の規模を誇りました。甲州武田氏が築いた「江尻城」「浜清水城(袋城)」があり、城下町も作られ繁栄しました。辻町の東木戸から始まり、入江町の西木戸までは約2km、宿の中心は「江尻町(現在の清水銀座)」でした。「江尻」とは、巴川の尻(下流)を示します。
【久能山東照宮 案内里程標塔】
大正4年5月15日(1915)、久能山東照宮徳川家康公三百年祭のとき、清水市江尻踏切脇に建設、昭和51年(1976)こちらに移転しました。
【江尻宿 東木戸(見附)跡】
辻四丁目にある日蓮宗本要寺前から旧東海道へ出る地点が江尻宿東木戸です。防備のため街道が曲折しています。
【妙蓮寺】
日蓮宗のお寺 室町時代(約600年前)日親上人が上洛途次、当寺の智善坊と法論、真言宗から日蓮宗に改宗しました。江尻及び辻村は、明治5年(1872)発布の学制令に基づき共同で本郷の妙蓮寺に公立小学校「日知館」を創立しました。この「日知館」が現在の江尻、辻両小学校の前身と言えます。
【本郷町】
「本郷」は各地にありますが、最初に開けた土地「もとむら」の意味です。江尻町誌によると、天正10年(1582)4月12日、信長公江尻宿御泊・・当時は今の本郷、辻あたりを江尻宿と言いしなり」と書かれています。本郷町には御三家と言われた、通称丸小(まるこ)の望月家、山梨家、油屋の佐藤家があり、共に優れた家柄で本郷の誇りでした。また船持ちの漁師が多く住む漁師町でもありました。
【吉浜稲荷】
本郷には昔より持地(ぢぢんさん)という町の祠があります。ご本尊を持地菩薩とよび崇拝しています。ある時沖で漁師の網に魚と共に吉浜稲荷のお札が掛かり、そのとき非常に大漁であったため、持地菩薩と一緒にそのお札を祀りました。以来大漁の神として漁師の信仰を集めました。
【鍛冶町】
改正され江尻東一丁目 永禄12年(1569)武田氏が江尻城を築いた際、城下町として発展しました。天正19年(1591)城下町から出火、この火事が原因で鍛冶職や鋳物職などは城の近くに建てる事を禁じ、海岸近くへ移転させられました。その頃江尻宿内の鍛冶屋は27戸で、その内鍛冶町だけで20戸ありました。
【和重屋】
徳川家御用鍛冶として恩顧に報いる為、鍛冶職の代表として毎年2月17日の久能山東照宮春の大祭には柄(つか)を付けない鎌二丁を奉献していました。
【荷居屋】
貞享(じょうきょう)元年(1684)創業、創始者の池上清助は鍛冶屋の長を勤めていました。荷居屋の由来は、参勤交代の諸大名の荷物を預かる所、つまり「荷が居る屋(みせ)」の意味です。人の出入りが多いので、遠く大和や富山方面の薬種商達の薬の取扱いを依頼され、自然生薬屋(きぐすりや)となりました。当時の店は道路を挟んだ筋向かい側にありました。
【鋳物師町と山田鋳物工場】
鋳物師山田六郎左衛門は徳川家康から賜った駿府の鋳物師町(現横田町)にあった細工所が、度々水害を受けるので請願しこの地に移り鋳物細工所を設け、駿府同様に「鋳物師町」と称したと由緒書に記されています。
【市中山 江浄寺】
徳川家ゆかりの浄土宗江浄寺は、江尻にある浄土宗のお寺という意味で、ご本尊の阿弥陀如来は静岡市指定文化財になっています。境内には徳川家康公の長男、徳川信康公の遺髪を納めた五輪塔があり、徳川家光公より葵御紋の使用を認められ、現在も各所に刻んでいます。
【御座橋川(三業川)】
江浄寺に徳川家康公嫡男信康公の墓所があり、命日には駿府城より使者がお参りに訪れていました。江浄寺の裏の川の橋で座って使者を待っていたので、その辺りを字御座橋坪と呼ぶ様になり、その川は御座橋川となりました。御座橋川が流れる仲町は、料理屋、芸者置屋、女郎屋が多かったので三業川と呼ばれるようになりました。
【江尻宿寺尾本陣跡碑】
寺尾家はもともと今川氏家臣でしたが、今川氏没落後武田氏に仕え武田氏滅亡後、江尻に移住しました。徳川家康より伝馬朱印状を与えられ、寺尾本陣の屋敷をここに建てたのです。慶長12年(1607)徳川家康が江尻宿寺尾興右衛門方に宿泊、三保から持参した松を植樹したと伝えられています。
【江尻城址】
永禄12年(1569)武田信玄は駿河に侵攻を開始、駿府を占領し支配下におき江尻城を築きました。現在遺構はありませんが、本丸跡には江尻小学校があり、校門は本丸門と呼ばれています。
【魚町稲荷神社】
祭神 宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと) 天正6年(1578)当時の江尻城主穴山信君(梅雪)が、大改築した際に江尻城の鎮護の神として社殿を造営したのが、はじまりと言われています。境内には、巨大なサッカーボールをかたどった「日本少年サッカー発祥の碑」があり、清水エスパルスの選手がシーズン前に、必勝祈願に訪れる事でも有名です。
【稚児橋】
慶長12年(1607)徳川家康の命により、東海道五十三次沿いの巴川に橋が架けられ、江尻橋と命名されました。しかし渡り初めの日、川の中から一人の童子が現れたため驚いた人々は、江尻橋を童子変じて稚児橋と呼ぶ様になったそうです。
【船高札】
正徳元年、駿府代官が河川交通の重要な場所であった稚児橋付近に、水難救出救助のお触れ「船高札」が建てられました。
【いちろんさんのでっころぼう】
夜泣きする子供の枕元に置いたところ治ったと伝わる郷土民芸品
【南小路】
東海道から久能道への分岐点。久能道は、久能山東照宮への参詣道として利用されました。
【紫雲山法岸寺】
延暦2年(1490)開山の浄土宗のお寺です。浄瑠璃歌舞伎「朝顔日記」主人公深雪の墓所が有ります。
【東明禅院】
東明院の山門は昔江尻城の裏門でした。江尻城廃城の時こちらに下賜され、お寺の山門として移築したものです。屋根には二基の鯱が据えられていています。しかし現在の山門は災禍に遇い焼失したため復元したものです。門扉に武田菱が形どられた南蛮鉄で造られた金具が取り付けられており、こちらは当時のものです。
【慈雲禅寺】
慈雲禅寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。宝永の震災で焼失しましたが、長泉智牛和尚によって再興されました。当時やせ地に悩む三保の農民を救うため、九州からサツマイモの苗を取り寄せすすめたところ、良く育ち三保に広がりました。そのため芋和尚と親しまれました。明治6年には本堂に入江小学校の前身である入江学舎が創立されました。また境内庭園には駿府城築城時巴川に落としたとされる八ツ石が残されています。
【江尻宿 西木戸(見附)跡】
道路脇小さな石柱が建っています。この辺りは院内町や西村と呼ばれており、周辺一帯は田圃や畑でした。
【文殊稲荷神社】
武田家の重臣、穴山梅雪が江尻城主であったころ、天守に文殊を安置しました。廃城後現在の場所に遷したと伝わります。境内の摂社愛宕神社は、徳川家康により駿府城の鬼門除けとして祭祀された、葵区沓谷の愛宕神社から分霊されたと言われています。また境内には市文化財の楠の古木があります。
参加した方々からは、「地元ですが新しい発見がありました」「ウォークの時間がちょうど良かったです」「ガイドの説明があってわかりやすかったので、また参加してみたいです」等の感想を頂きました。