観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

『十返舎一九と東海道中膝栗毛』をテーマに、令和7年2月13日(木)会員向け講演会を開催しました。

十返舎一九は駿府生まれ。    令和7年は生誕260年。

 

令和7年2月13日(木)アイセル21におきまして静岡在住の漫画家であり、昨秋静岡新聞社から「痛快歴史漫画  東海道中膝栗毛」を発行された たたらなおき氏を講師にお迎えし『十返舎一九と東海道中膝栗毛」をテーマに駿府ウエイブ会員のガイドスキルアップのための講演会を開催しました。41名が受講しました。講演の骨子をご紹介します。

 

 

十返舎一九とは・・・?

 

『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九は、明和2年(1765、今年生誕260年)、駿府町奉行同心重田幾八の長男として両替町で生まれました。本名は重田貞一、幼名を市九といいます。一九自身も当初は父親の跡を継いで奉行所に勤務した時期があったと推定されます。

 

天明3年(1783)大坂に行き、一時は近松余七の名で浄瑠璃作家として活躍しましたが、その後士分を捨て寛政6年(1794)庶民文化華やかな江戸に戻り、版元である蔦屋重三郎の食客となり、ドウサ引きなどの手伝いをする傍ら、作家の山東京伝、曲亭馬琴などとの知遇を得ることになり、戯作の道に専念し多くの黄表紙や洒落本などを書きました。

 

享和2年(1802)に出版した滑稽本『浮世道中膝栗毛』(のちの『東海道中膝栗毛』)は 空前のベストセラーとなり、その後毎年一編づつ8年にわたって書き続け文化6年(1809)全八編を完結しました。一九は日本で最初に文筆活動のみで自活することができた、今でいうベストセラー作家のひとりと言われています。その誕生の背景には、250年の長きにわたり戦(いくさ)のない平和な時代が続き、武から文の時代が到来し、寺子屋の普及による町人にいたるまでの識字率、読解力の向上があり、多くの貸本屋を通じた町人読者の増加と、交通制度の整備による庶民の旅の隆盛があったことも見逃せません。

 

享和4年(1804)には文章を一九、絵を浮世絵師の喜多川歌麿が描いた「青楼絵本年中行事」という𠮷原紹介本が発行されています。また手紙の書き方などの実用書は往来物と呼ばれ、寺子屋で教科書としても使われますが、一九は生涯60種を超える往来物を残しています。

 

文政5年(1822)までの21年間、「金比羅参り」「厳島・宮島参り」「中仙道」等、次々と『膝栗毛』の続編を書き継ぎました。天保2年(1831)一九は67才の生涯を閉じますが、500点以上の本を残していると言われています。

 

 

『東海道中膝栗毛』とは・・・?

 

『東海道中膝栗毛』の物語は江戸神田の八丁堀に住む府中生まれの弥次郎兵衛と江尻(現静岡市清水区)出身の喜多八という無邪気でひょうきんな主人公たちが、江戸を出発して東海道を西へ向かい伊勢を経て京都・大坂へと滑稽な旅を続ける道中話です。現在も名物の安倍川餅やとろろ汁なども登場します。

 

また府中では弥勒手前の安倍川町(二丁町といった)の遊郭へ出かけたり、丸子では飛び込んだ茶屋の夫婦喧嘩に巻き込まれ、名物とろろ汁を食べるどころか早々に退散したといった話が語られています。江戸時代の旅を記録する貴重な資料となっています。

 

歌川広重の風景画の浮世絵『東海道五十三次』保永堂版(天保4年、1833年)は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の発刊と、貸本屋での爆発的人気に目を付けた版元が制作を企画した浮世絵と言われており、葛飾北斎の大人気作「富嶽三十六景」と共に、一九の『東海道中膝栗毛』の発刊が呼び水となった訳です。

 

 

静岡市と藤枝市の『東海道中膝栗毛』の抜粋と各宿場の様子はここをクリック。

 

静岡市内には十返舎一九を紹介するモニュメントが設置されています。

駿府城公園二ノ丸堀の東海道中膝栗毛の主人公『弥次喜多像』

 

 両替町1丁目の『 十返舎一九生家跡伝承地碑 』説明文

  丸子丁子屋 十返舎一九 狂歌歌碑

 

蔦屋重三郎とは・・・?

 

本年のNHK大河ドラマは「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~」が放映されています。

十返舎一九は江戸に出た数年間、主人公・蔦屋重三郎宅に寄宿していましたので登場するかもしれませんんね。

蔦屋重三郎は寛延3年(1750)江戸新吉原に誕生し、歌麿、北斎といった浮世絵師を見出し、山東京伝、曲亭馬琴などの黄表紙、洒落本や狂歌といった文芸のジャンルでも数々のベストセラー作品を生み出しました。

ドラマは十返舎一九を始めとした文化人や町人が生き生きと活躍した江戸時代が後期に差し掛かる時代の物語です。

(お話しいただいた順序等、時系列に並び替えさせていただきました。)