観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

駿府町名碑巡り・パート2

駿府ウエイブ主催の町名碑巡りの第二弾、「駿府九十六ヶ町 町名碑巡り・パート2」が平成29年11月23日(木・祝)に開催されました。パート2の集合場所は、静岡浅間神社。午前8時40分から受付を開始し、9時より順次出発していきました。スタート時は、前日の雨が残る天候となりましたが、次第に晴れ間も見えるほどに回復しました。

主な経路は、静岡浅間神社から、御器屋町、宮ケ崎町、馬場町、柚木町、土太夫町、上桶屋町、茶町、上魚町、研屋町、西寺町大鋸町、新通2丁目など11ヵ所の町名碑を巡り、西見付(川越町)を経て、目的地の弥勒公園・安倍川東岸までの約4㎞、3時間の行程でした。一般の参加者は121名、駿府ウエイブのガイド13名でご案内しました。

パート2では、スタート地点の静岡浅間神社境内及び今川氏との関連、また山田長政の出生地とされる馬場町ではシャム(現在のタイ)での活躍などを加えガイドしていきました。ここでは、その一部をご紹介します。(写真:静岡浅間神社・集合時の様子)

【静岡浅間神社】

   静岡浅間神社は、南アルプスから続く賎機山の南端に位置し、安倍川、藁科川が合流し、静岡平野に出る扇状地の「扇頂」に位置しています。

神部神社(約2100年前)・浅間神社・(約1100年前)・大歳御祖神社(約1700年前)の三社を総称して、静岡浅間神社と称され、静岡の総氏神さま、駿河の総社として広く信仰されています。

現在の社殿群は、徳川幕府が総力をあげ文化元年(1804)より60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造されたもので絢爛豪華な建造物群が26棟も残っており、花鳥霊獣の彫刻類は繊細を極めています。静岡市内に残る数少ない江戸時代の木造建築物群を後世に遺すため、前回の修理から40年を経て、現在20年ほどをかけて漆の塗り直しを中心に、金具を始め部材の修理等、改修工事がなされています。(写真:静岡浅間神社・舞殿前)

《今川氏との関連》

今川家は足利一門において名門とされ、足利将軍家の親族としての家格を有し、室町将軍家から御一家として遇された吉良家の分家にあたります。吉良家の分家である今川家は守護や侍所所司を務めました。今川範国(初代)は足利尊氏に従い、各地で戦功を挙げ、駿河・遠江の守護になったことが、のちに戦国大名にまで成長する出発点でした。

今川範国(初代)は駿河守護として駿河に初めて“お国入り”したとき、駿河総社である神部神社に参拝した折、そこで聞いた巫女の託宣(神が人に乗り移り神の意志を伝えること)により、「赤鳥」が今川氏の旗印に確定することとなりました。  

                    引両紋「丸に二つ引」                                             赤鳥紋(馬印・旗印)  

【馬場町】

駿府城大手門の北西に位置する町名の由来は,徳川家康駿府在城のとき浅間前に馬場があったことに由来します。地内に寛永年間シャム国で活躍した山田長政旧宅があります。

《山田長政出生の地》

山田長政(天正18年(1590年)~ 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物です。

出生は馬場町とされ父は紺屋を営む津国屋、母は藁科村の出身の寺尾某の娘。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、駕籠かきをしていましたが、その後1612年に駿府の商人たちが手配した朱印船で長崎から台湾を経てシャム(タイ)に渡りました。後に、日本人傭兵隊に加わり、頭角を現しアユタヤ郊外の日本人町の頭領となります。商人の才覚と指揮官としての頭角をあらわし、日タイの貿易のみならず、近隣諸国にも商船を送り、ヨーロッパの巨大交易企業との熾烈な経済戦争に勝ち続けました。またアユタヤ国王の護衛兵としても活躍し、日本人義勇兵を率いて外敵と戦い、数々の武勲をうちたてました。これらの活躍に国王は、王室内での最高の官職を与えました。長政は立身出世を喜び、故郷の浅間神社に「戦艦図絵馬」を奉納しました。(写真:山田長政像前)

【茶町】

町名は、安倍山中の産物である茶の商を中心としたことに由来します

             

茶町周辺は、今も茶問屋が軒を並べ、「お茶静岡」の伝統を支えています。寛永12年(1635)11月30日、2丁目の大橋治右衛門宅からの出火は城中に延焼し,御殿・天守閣・櫓・多聞などが全焼し大惨事となりました。

             

           茶町:町名碑

【上魚町】

上魚町は、家康公の大御所時代には、中央通りを挟んで南側に後藤庄三郎光次の宅地が置かれていました。光次が江戸に移るまでは、ここを金座とし「駿河小判」と呼ばれる金貨が鋳造されていました。また、北側には駿府城や久能山東照宮を造営した大工の棟梁中井正清も住んでいました。

「駿国雑誌」によれば、家康公の在城の時、下魚町から魚商人を移動させたとされ、町の南側を魚問屋、北側には青物問屋が軒を連ね、「流通センター」のような役割を果たしていました。大正11年(1922)に道幅が8間に拡幅され、市内で初めて車道と歩道が分離された道路となり、昭和3年(1928)には昭和天皇即位を記念して金座町となりました。

                          

 

 

 

                                                    上魚町・町名碑       

                  

 

 

       研屋町・町名碑

【研屋町】

町名は、慶長年間徳川家康とともに伏見から移ってきた研師が宅地を賜り御用の刀剣を磨研したことに由来します。研ぎの御用を担っていたことから、研屋町はほとんどの公的な負担を免除されていました。研屋町は安倍川の扇状地で砂礫層のため地盤もよく、清く澄んだ水が湧き出るほどで刀剣の研磨に適していたと言われています。明治維新後の廃刀令のため、研摩師の多くは転職し、商人・職人など百十戸ほどの町になりました。

【新通2丁目】

家康公が慶長4年(1609)駿府城下町づくりを行った際、現在の本通筋に替えて、幅5間(約9m)の東海道の新しい道筋が100メートルも離れていない南側に設けられました。新しい通りに沿って町並みが形作られ「新通」という城下町のひとつが生まれました。ルート変更には西国の外様大名もひれ伏す視覚効果があったと伝えられています。当時、江戸へ向かう行列の新通りの正面に見えたのは駿府城の巨大な天守閣。その向こうには日本一の富士山がそびえていました。江戸幕府初期のまだ政情不安なこの時代、権力を見せつけ、反乱を未然に防ぐ必要もあったのではないかと考えられています。

                                               現在の新通り 

                                                  江戸幕府初期の新通り        

                                  

【西見付跡(川越町)】

宿場の入口出口に見付という場所があり、桝形を有する街道を行き来する旅人の見張場の役目をしていました。江戸側にあるものを「江戸方見附」又は「東見附」、京側にあるものを「上方(京方)見附」又は「西見附」と呼んでいました。西見付は、安倍川右岸の川越町に設けられ、竹垣根を石垣の上に組み、土手で囲む堅固な造りとなっていました。

【弥勒公園付近】

江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で『正保年間に開かれ江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餠を売るようになった。この餠を「安倍川餠」という。これが「弥勒町」の由来となった』記されています。 

弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由井正雪墓址碑」、昭和の初め小学4年の教科書に載った「安倍川義夫の碑」、安倍川に安水橋を架けた宮崎総五を称える「頌徳の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。(弥勒町・静岡市教育委員会より抜粋)

                                                                           安倍川架橋の碑 

                                                                                                                                                          安倍川もちの「せきべや」                                                                                                  

「駿府九十六ヶ町 町名碑巡り パート2」は、スタート時の雨も晴れ間の見えるほどに回復し、無事に終了することが出来ました。パート1では19ヶ所、今回のパート2では11ヶ所、全部で30ヶ所の町名碑を巡りました。市街地には32ヶ所設置されていますが、呉服町と上石町以外のすべてを巡ったことになります。今川時代に礎がつくられ、徳川時代に整備された街並みを歩いて駿府の町の歴史散歩を楽しめたでしょうか。お疲れさまでした。

次回の企画ウオークは、来年の2月3日(土)…瀬名氏と梶原一族ゆかりの地を訪ねて「梶原山・一本松公園へ登ろう」です。またのご参加をお待ちしています。

 

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