観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

  • 静岡浅間神社(葵区宮ヶ崎町102-1/054-245-1820)

    駿河国総社として古くから信仰を集めてきた静岡浅間神社。今川氏の初代範国が駿府に進出したとき、最初に参拝した寺社です。巫女のお告げを受け今川氏の「赤鳥」の笠験が誕生して以来、歴代当主から厚い庇護を受けてきました。現在の社殿は、江戸時代後期の文化元年(1804)から60年の歳月をかけて再建されたものです。総漆塗り極彩色の社殿群のいたるところに立川流の見事な彫刻が施されており、26棟の建造物が国の重要文化財に指定されています。

  • 臨済寺(葵区大岩町7-1/054-245-2740)

    今川氏の軍師として著名な太原雪斎が今川義元の兄で8代目当主氏輝の菩提寺として建立した寺です。氏輝は直臣団馬廻り衆の創設や商業振興などに力を注ぎました。今川氏ゆかりの品々が数多く残されています。臨済寺庭園は、江戸時代には「府(駿府)辺第一の風景也」と謳われました。このほか、臨済寺本堂、鉄山釜(県指定文化財)などがあります。修行寺ですので、普段は境内に入ることはできません。特別公開日のみ拝観可能

  • 柴屋寺(駿河区丸子3316/054-259-3686)

    今川氏6代目義忠、7代目氏親に仕えた連歌師宗長の庵として永正元年(1504)建てられました。宗長は出家しており、全国を往来できたため、氏親に他国の情報を提供する役目も果たしていたとされます。国の史跡・名勝に指定されている庭園は、宗長が丹精込めて築き上げたと伝えられ、背後に天柱山を取り込んだ借景式の庭園です。月の名所としても知られています。「わび茶」以前の「書院の茶」の茶室も残されています。
    ■志納料:大人300円、小人200円

  • 徳願寺(駿河区向敷地689/054-259-7304)

    6代目当主、今川義忠の妻、北川殿の菩提寺です。北川殿は、義忠が応仁・文明の乱勃発時の応仁元年(1467)に上洛しており、その折結婚の話がまとまり、義忠が駿府に戻るとき、彼女を伴ったのではないかと言われている北川殿は、息子の今川氏親が、小鹿範満と家督を争った際、自身の兄弟である北条早雲の助けも借りて氏親を支えました。ここからは、静岡の市街地を見渡すことができます。山茶花の名所でもあります。駿河七観音(安倍七観音)のひとつ。

  • 増善寺(葵区慈悲尾302/054-278-6333)

    守護大名から荘園制を否定し、家臣に知行地を与え、また大永6年(1526)「今川仮名目録」を制定し、安倍金山開発等、戦国大名に成長した7代目今川氏親の菩提寺です。境内には氏親が眠る今川廟があり、本堂内に氏親の木像も安置されています。また今川義元が発給した文書なども残されており、増善寺文書として静岡市の指定文化財になっています。増善寺文書は、静岡市文化財資料館に保管されていて、定期的に展示公開しています。
    駿河七観音(安倍七観音)のひとつ。

  • 清見寺(清水区興津清見寺町418-1/054-369-0028)

    「清見潟」を守る寺として、10世紀半ばころには存在していたと考えられています。鎌倉時代以後、荒廃していた寺を、今川義元の軍師雪斎が復興させました。書院と本堂に面して、山の斜面を利用した優雅な庭園があり、国の名勝に指定されています。このほか木造足利尊氏坐像(県指定文化財)、紙本墨画達磨像(県指定文化財)、歴代序略版木など貴重な文化財を多数所有しています。
    ■志納料:大人300円、中高校生200円、小学生100円

  • 龍雲寺(葵区沓谷3-10-1/054-261-4861)

    桶狭間の戦いで義元が討たれたのち、氏親の正室寿桂尼が開いた寺です。境内の奥に寿桂尼の墓所があり、静岡市の史跡に指定されています。寿桂尼が亡くなったのは永禄11年(1568)3月。武田氏が駿府に侵攻し、10代今川氏真が掛川に逃れるわずか9か月前のことです。戦国大名今川氏の栄枯盛衰を見つめ続けてきた寿桂尼。竜雲寺本堂の前には、彼女が使用した「歸」(とつぐ)の印判を刻んだ石碑も建っています。寿桂尼は公家中御門信胤の娘。

  • 報土寺(葵区宮ヶ崎町110/054-252-4920)

    報土寺の開創は今川氏親(義元の父)の時代、京都から来ていた公家で歌人の冷泉家第七代の冷泉為和が、度々報土寺で歌会を催していた記録が残っています。当時の荒廃した京都を逃れて駿府に流寓した公家殿上人はかなりの数にのぼっており、為和は天文18年(1548)没するまで駿府に居りました。弘治2年(1556)駿府に来た中納言山科言継も報土寺に参拝したことが『言継卿記』に詳しく記されています。『言継卿記』には半年間の駿府滞在時の日記も含まれており、当時の駿府の様子が伺えます。

  • 清水寺(葵区音羽町27-8/054-246-9333)

    寺伝によると、今川氏親(義元の父)時代に開かれた真言密教の檀林(学問所)の地に、今川義元が兄・氏輝の遺命により朝比奈丹波守元長に命じて永禄2年(1559)建立、京都東山の清水寺の景色に似ていたことから、音羽山清水寺と名付けられたとされています。
    しかし、山科言継(ときつぐ)の日記『言継卿記』には、弘治2年(1556)11月に「清水寺に参詣」とあるので、1556年には清水寺は存在したことになります。
    その後、慶長7年(1602)徳川家康が寺領を寄進、葵の御紋の使用もゆるしています。(このとき徳川幕府はまだ開府されておらず、家康も伏見にいました)。大御所となって駿府に戻った家康公が慶長15年(1610)、千手観音像などを寄進し、建立した観音堂を今でも見ることができます。

  • 富春院(葵区大岩本町26-23/054-245-5319)

    富春院の開創は天文年間の(1536~38)、今川義元の時代。寺には開基と伝わる二人の位牌が祀られている。一つは、富春院殿一輪常心大居士、もう1つが花屋院殿陽岳妙春大姉と書かれていて、富春院の寺号と華屋山の山号はこの二人の法名に由来しているが、どういう人かは伝わっていない。富春院には「天澤寺殿四品禮部侍郎秀峰哲公大居士位」と記された高さ58cmの義元公の位牌も祀られている。墓地の一角に、近年建てられた「今川義元公慰霊塔」(石造十三重塔)がある。また、境内の地蔵堂には、義元公ゆかりの伝説がある墨崎延命地地蔵尊を祀る。

  • 建穂観音堂(静岡市葵区建穂二丁目12番6号)、建穂神社(静岡市葵区建穂271番地)

    建穂寺は最盛期の鎌倉時代には、『吾妻鑑』にも載り、国師第1号の大応国師が10年間修業した古刹です。明治初めの火災でほとんどが消失し、「幻の寺」とも称され、現在残るのは60余躯を安置する観音堂や建穂神社などわずかですが、静岡浅間神社の二十日会祭の稚児舞は、今でも建穂神社で神事をしてから出発しています。
    今川氏との結びつきは深く、寿桂尼の兄の宣増は建穂寺の別当を勤めています。また、今川氏真は武田信玄に追われて藁科街道を掛川城に退却する際、今川氏と血縁関係にあった学頭慶隆を頼って建穂寺に立寄っています。
    画像:静岡県立中央図書館所蔵 『駿国雑志』より