観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

  • 今川義元(いまがわよしもと) 永正16年(1519)~永禄3年(1560)

    今川氏親の五男。長兄・氏輝の没後、花蔵の乱に勝利して家督を継ぐ。「仮名目録追加」を制定し、東海道と太平洋水運で商品流通経済を活性化させ、商人のことは商人に任せる「民活」と金山開発で富国強兵を図り、駿河・遠江・三河三ヵ国の大名となる。都下りの公家を優遇し、王朝風公家文化を花開かせた。
    甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と「甲相駿三国同盟」を結び、家督を嫡男・氏真に譲ったのち、尾張に侵攻するが、織田信長の襲撃により桶狭間で討ち死にした。
    「今川義元像」臨済寺蔵

  • 今川氏親(いまがわうじちか)文明3年(1471)~大永6年(1526)

    駿河の守護大名・今川義忠の嫡男。6歳の時、父が不慮の死をとげ、家中の内紛で、不遇な少年時代を送るが、17歳の時、叔父・北条早雲の援助を得て、家督を継ぐ。しばらくは早雲の補佐を受けながら遠江への進出に全力をあげ、斯波氏を制圧して二ヵ国の大名となる。金山経営の大規模化で財源を確保し、検地により従来の荘園制的土地支配から氏親による一元的な土地支配への転換を図り、分国法「今川仮名目録」の制定で室町幕府から自立し、戦国大名への脱皮を果たした。
    「今川氏親像」増善寺蔵

  • 寿桂尼(じゅけいに)生年不詳~永禄11年1568

    京都の公卿・中御門宣胤の娘として生まれ、今川氏親と結婚して駿河に下り、氏輝、義元を生んだ。氏親の没後は髪をおろして寿桂尼と名乗り、14歳の若さで家督を継いだ氏輝を補佐し、「歸」の印を用い、27通以上の印判状を出すなど政治を左右する実力者となり、駿河の尼御台の異名をとった。兄や妹も、京から駿府に下ってきていた。桶狭間の戦いの8年後、今川領国の崩壊が始まるなか「わが死後、鬼門に葬られ、今川館を守護せん」と遺言し、龍雲寺に葬られた。
    「寿桂尼像」正林寺蔵

  • 宗長(そうちょう) 文安5年(1448)~天文元年(1532)

    島田の刀鍛冶・五条義助の三男。今川義忠に近侍し、18歳で剃髪。義忠の没後に上洛し、大徳寺の一休宗純に参禅、宗祇に師事して連歌を学んだ。連歌は主従の結束を強め、戦勝を祈願するものとして戦国武将に好まれた。宗祇の旅に随行後、駿府の河辺に結庵し、龍王丸(氏親)を助けた。宗祇の没後、1504年(永正元)、氏親から丸子の泉ヶ谷に柴屋軒を与えられ定住。京と駿河を往来し、今川氏のために画策した。句集、連歌論書、紀行、日記、随筆にわたり多くの著作がある。
    「宗長木像」柴屋寺蔵

  • 太原崇孚(たいげんそうふ)(雪斎(せっさい)) 明応5年(1496)~弘治元年(1555)

    今川家の重臣・庵原左衛門尉の子として生まれ、善得寺に入り、のち京の建仁寺霊泉院で学び、九英承菊と称した。今川氏親の懇請により方菊丸(のちの義元)の養育係として駿府に下り、義元を伴って再び建仁寺に学んだのち、妙心寺の門をたたいた。氏輝の要請で義元とともに駿河に下り、善得寺の住持として臨済宗妙心寺派の法幢を伸ばした。氏輝の没後は、義元を補佐して家督を継がせ、義元の三河進出にあたっては総大将となり、武田・北条・今川の三国同盟を結ばせた。
    「雪斎像」臨済寺蔵