駿府ウエイブ 創立20周年記念 特別講演会『今川の駿府、徳川の駿府』実施報告
平成30年7月5日(木)午後1時30分から、しずぎんホール ユーフォニアにて駿府ウエイブ 創立20周年記念特別講演会『今川の駿府、徳川の駿府』を開催しました。講師には德川記念財団理事・德川家広様と静岡大学名誉教授・小和田哲男先生のお二人にお願いしました。
会場には駿府ウエイブの会員を含め424人の静岡市民を中心としたお客様にお集まりいただきました。
第1部は德川記念財団理事・德川家広様の講演『家康公が愛した駿府のまち』です。
「徳川家康という人を考えて行く上で欠かせないのは静岡です。家康公は駿府で人格形成をしたと思います。岡崎は辺鄙な所でしたし、松平家は小さな大名でしたので、駿府という豊かな所で過ごしたことは幸運でした。家康公は戦国時代を終わらせた特別な人になりました。どうして乱世から平和へ転換させることができたのでしょうか。豊臣秀吉は自分の立身出世の体験から、戦は力あるものが奪うという考えで朝鮮出兵を行いました。最初は連戦連勝でしたが終わりの見えない戦いになりました。秀吉が亡くなって、豊臣政権の最高責任者になった家康公が最初にしたのは、朝鮮からの撤収でした。家康公は朝鮮李王朝、明との平和的貿易を望んでいました。しかし、もう1回朝鮮で戦争をやり、手柄を立てて出世したい、と思う武士達が、特に朝鮮に動員された西日本に多かった。そういう中、どうやって日本に平和を造るか、というと秀吉に匹敵するカリスマが必要でした。関ヶ原の戦いで大勝利しなければいけない。関ヶ原の戦いは、もう一度朝鮮出兵をするかしないかの戦いでもあり、それをわかった豊臣恩顧の大名が家康公に付く約束を守り勝利しました。家康公もそれに応え充分な恩賞を与えました。関ヶ原の戦いはその信頼関係の勝利なのです。その結果、約束を守るという法治主義が浸透したのです。この戦いを境に世の中は大きく変わりました。家康公は将軍職を2年で秀忠に譲り、駿府へ戻りました。江戸は当時建設中で殺伐としていたので早く駿府へ戻りたかったのだと思います。当時の駿府は江戸より文明が成熟しており、清水港もあって内外からのブレインを集めやすかったのです。家康公は駿府城で10年かけて江戸時代の仕組みを考えました。3つの諸法度を作り、これからもこの平和を続けますという元和令を出しました。これは今の平和憲法にも通ずるものです。」德川家広様の3代前の家達様は6歳で德川宗家を継がれ、駿府藩主として来静されました。静岡を去る時、久能山に参拝が絶えないようにと、御宗家にあった德川家の宝物の半分を久能山東照宮に奉納されたそうです。
第2部は静岡大学名誉教授・小和田哲男先生の講演『徳川が今川から受け継いだもの』です。
「今川は戦国大名としてはつぶれましたが、今川の残したものは徳川がひきついでいます。義元公生誕五百年の来年は今川を売り出したいと思います。義元公は竹千代をどう見ていたか。普通の人質とは違い特別待遇でした。自分の一字を与え、腹巻もさずけ、義元公の姪と結婚させました。竹千代に将来性があるのを見て、息子氏真の補佐にしようとしたのではないでしょうか。8歳から14歳の時期に太原雪斎の薫陶を受けたことが、後に大御所としての人間性を高めました。足利の血を引く今川は能、茶の湯、和歌等の室町文化を引き継ぎ、竹千代はその中で育ちました。今川の版本「駿河版」を読んだ体験から、「伏見版」「駿河版」を出版しています。今川は長い間、駿遠三の領国のほとんどが他国から攻められませんでした。この優れた今川家の領国経営と帝王学を、武将としてでなく為政者として受け継ぎました。東海道の整備も今川時代の伝馬制に倣ってなされました。」今川の基礎があったから、家康公はそれを参考に町づくり、国づくりが出来たのだろうと思いました。この静岡市が平和で豊かであるのは、今川と德川のお陰ですね。
德川家広様の国際的視点を交えたお話と、小和田先生のわかりやすいお話は、20周年記念の良い講演になりました。ありがとうございました