観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

瀬名氏と梶原一族ゆかりの地を訪ねて「梶原山・一本松公園へ登ろう」

平成30年2月3日(土)、駿府ウエイブ主催の企画ウォーク「瀬名氏と梶原一族ゆかりの地を訪ねて『梶原山・一本松公園へ登ろう』」が開催されました。

当日は30日の雨、雪の影響が心配されましたが、晴天、無風に恵まれ、応募された4歳から84歳までの59名の方々が参加されました。瀬名のリンク西奈に集合、
6班に分かれ9時30分から順次出発しましました。
(リンク西奈、受付時写真・右)

 

最初に瀬名館と光鏡院をご案内しました。
(光鏡院写真・左下)

光鏡院は、瀬名一族の祖である今川陸奥守氏一秀の菩提寺で、長享2年(1488)恵雲が開山した曹洞宗の寺である。文明8年(1476)今川6代当主義忠が不慮の死をとげ、今川一族の間で竜王丸(今川氏親)派と小鹿範満派に分かれて争いが起ると、一秀は竜王丸を補佐するため遠江から瀬名に移り住み、瀬名氏と改名し、以来、一秀は瀬名一族の祖となった。通称「瀬名館」は、瀬名集落のほぼ中央にあって、瀬名一秀を祖として氏貞、氏俊、氏詮四代の居館跡であったことが「今川記」に記されている。遺構は認められないが、今川直系を補佐する一族として瀬名氏の勢力は大きかったと推測される。瀬名砦の所在は不明であるが、光鏡院の裏山とも考えられ、武田信玄の駿河侵攻の際に落城したことが記録に見られる。

 

光鏡院を過ぎるとここからが梶原山への登りとなりました。(梶原山登坂写真・右上)

 

瀬名古墳群は、梶原山(牛谷山)の尾根(標高約50~140m)に築かれた古墳7基(前方後円墳・円墳・方墳)で構成。古墳時代中期・後期・末期(5~7世紀)、この地域(西奈地区)を治めた豪族が埋葬された首長の墓と考えられています。

 

鎌倉時代の武将・梶原景時は、治承4年(1180)、大庭景親と共に源頼朝と石橋山で戦ったが、密かに頼朝に通じて危急を救い、のち頼朝に仕え信任され、壇ノ浦の合戦では義経と共に平家を倒し、鎌倉幕府の要職にありました。正治元年(1199)頼朝が死亡し、頼家が2代将軍となると、景時は御家人と対立、失脚。正治2年、西の所領である京都に向かった。幕府方は、各地の豪族に討伐を指令し、一行が清見関にさしかかった時、駿河の入江氏・吉川氏・渋川氏・船越氏・飯田氏・矢部氏等と合戦となり、梶原一族は、奮戦したが、景時らは裏山に逃れる。梶原山山頂近くの岩間から清水が滴り出ていたので景時父子は、その水で鬢のほつれをなおして梶原山頂に上り、景時は、「もののふのかくごもかかる時にこそ 心の知らぬ名のみをしけれ」の辞世の歌をしたためて自刃した。

今でも、そこを「鬢洗い水」あるいは「鬢水」と言っています。(鬢水の泉写真・右上)

 

生憎北東方面は雲がかかり富士山の姿は見ることができませんでしたが、無風状態の梶原山山頂でのお弁当は程よい疲労感と静岡市内、日本平、三保の松原、駿河湾などの絶景もごちそうにしておいしいランチになりました。

 

一本松公園(帆掛山)

大内の裏山の頂上が一本松公園。ここには、大人3人でかかえるくらいの松の大木が生えていたので一本松と言われていた。昔、駿河湾に入る船の目印となるほど、遠くから見えた。昭和5年当時の一本松の写真は現存していて実に立派な木でしたが、何らかの理由(落雷、松食虫、火災によるもの等はっきりしない)により枯れてしまいました。

 

鷲峰山 霊山寺

寺伝では天平勝宝元年(749)行基菩薩の創建と伝えられる。駿河七観音の一寺で、本尊は千手観音菩薩(大内観音)である。久能寺(鉄舟寺)、平沢寺と並ぶ観音信仰の霊場である。雨乞観音としても信仰されている。

仁王門(国指定重要文化財)は、永正13年(1516)2月に建立されたもので、室町末期のものとして雄大な風格をしめし柱は、中央に膨らみを持たせ上部がやや細くしている。また通路上部の蟇股は、日本に三つしかないと言う特異な芸風を示している。

本堂(観音堂)は市指定有形文化財。現在の建物は宝暦6年(1756)に再建されたものである。堂内には本尊の千手観音像、上段左右に二十八部衆と風神雷新像が配置されている。外陣正面に黄檗宗万福寺5世黄泉和尚筆の「悲願海」の額を掲げ、天井中央に墨絵の龍と天女が描かれている。天井龍図(市指定有形文化財)は「文政2年(1819)3月吉辰山梨靖謹画」の落款があり、庵原三山の1人、山梨鶴山(やまなしかくざん)39才の作である。

鐘楼は間口、奥行9尺四方である。二層入母屋造、瓦葺。明治21年再建。梵鐘は元禄4年(1691)に山麓で鋳造されたものであったが、第二次大戦の時に供出された。

(霊山寺写真 ・右上)

 

梶原堂

正治2年(1200)梶原一族がこの地で滅びた後、牛ヶ谷(梶原山)の山上に小堂を建て、一族の霊を祀った。その百数十年後、堂宇を山麓に移し一寺を建立した。この寺は梶原景時の法名「龍泉院殿梶勝原公大居士」に因んで梶原山龍泉寺と名づけられた。明治4年(1871)、寺は荒廃により廃寺となったが、梶原堂と墳墓はわずかに残され、明治25年(1892)付近の有志により堂宇が修築された。

現在、堂内には梶原景時と源頼朝の位牌、如意輪観音像、毘沙門天像が祀られ、堂の脇には梶原一族を供養する五輪塔数基がある。梶原堂は市の文化財に指定されている。

(梶原堂写真・右上)

 

約5時間のウォーキングお疲れさまでした。次回は、3月3日に「久能寺観音道~久能街道を歩こう」を実施します。またのご参加をお待ちしています。