駿府町名碑巡り・パート1
駿府九十六ヶ町 町名碑巡り パート1
平成29年10月14日(土)駿府ウエイブ主催の「駿府
九十六ヶ町 町名碑巡り・パート1」が開催されました。今回は町名の由来を記した町名碑巡り のパート1。府中宿の東の入口で、見付のあった 「下横田町」から高札場のあった
「札の辻町」まで の4Km、約3時間かけて町名碑を巡りました。(写真右:府中宿;石碑)
徳川家康が整備したと言われる、駿府九十六ヶ町。駿府城を中心に碁盤目状に整備された当時の町の形は、現在の静岡市街地の基礎となりました。
また、150年前の慶応3年(1867)10月14日 は、徳川慶喜が将軍職を返上した「(大政奉還)節目の日です。コース内には 大政奉還から明治維新にかけての旧跡《西郷・山岡会見の碑、浮月楼、宝台院 》のご案内も併せて企画されました。
町名碑巡りは、午前9時に清水山公園に集合。当日は、朝方の雨にもかかわら ず120名の方々が参加されました。雨は、一時的に強く降ることもありました が、しだいに回復。駿府ウエイブのガイドのもと16班に分かれて町名碑巡りを 楽しみました。ここでは、ガイドしたコースと主要な地点をご紹介します。
【下横田町】
駿府城の東部に位置し,東海道府中宿の一画を構成する東海道を西上して駿府城下に 入る入り口にあたり,枡形をもった東見附がありました。枡形を構成する石垣は高さ2尺の 土手の上に3尺の石垣を積み,その頂部は屋根形,底部の幅は9尺あったそうです(駿国 雑志)。当町には立場茶屋があり,西に進むと猿屋町・院内町を経て上横田町に至り,さら にその先の伝馬町までを狭義の府中宿と称したと言われています。
【上・下伝馬町】
東海道府中宿の一画に位置し、町名は伝馬の機能が設けられたことに由来します。江戸時代中期には、2軒の本陣と脇本陣、問屋場、貫目改所、旅籠43軒がありました。享和3年(1803)の伝馬町の家数100竈数145・人口445,本陣・脇本陣のほか旅籠が30軒あったそうです。この伝馬町が様変わりしたのは、明治22年(1889)の東海道本線の開通でした。旅人の宿泊が激減。転職を余儀なくされたそうです。
(写真右:上・下伝馬町;町名碑)
【西郷・山岡会見の碑】(大政奉還から明治維新にかけての旧跡)
慶応4年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した。 有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀 西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われました。この会見において、15代将軍徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、5日後の3月14日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現しました。明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置付けられています。
(写真下:西郷・山岡会見の碑)
【浮月楼】(大政奉還から明治維新にかけての旧跡)
浮月楼の角に「徳川慶喜公屋敷跡」の小さな石柱があります。
この料亭一帯は、駿府(紺屋町)代官所の跡です。明治2年(1869)10月、謹慎をとかれた徳川慶喜公は宝台院よりこの代官屋敷に移り住みました。以後政治にはいっさいかかわらず、ときおり旧幕臣が訪れるなかで、狩猟やカメラ・油絵・自転車などの多彩な趣味に熱中しました。屋敷南側に広がる回遊式の池は、慶喜公が作庭師小川治兵衛に命じて改修させた今に残る名園です。慶喜公は明治21年(1888)、東海道本線が屋敷のすぐ南側に建設されると、西草深の新邸宅に移られました。
【紺屋町】
駿府城下の南東に位置する町名は慶長年間に染物師が居住したことに由来します。(駿河志料)
寛永9年(1632)から置かれた駿府城守衛の役目をもつ加番の屋敷は紺屋町加番・町口加番などと呼ばれましたが、慶安4年(1651)駿府城横内門前に移されました。寛文2年(1662)駿河の幕府領は駿府町奉行所支配から代官所支配となり,役屋敷が当町に設置され駿河(紺屋町)代官所と呼ばれ,米蔵も置かれました。
【宝台院】
宝台院は徳川2代将軍秀忠(徳川家康第3子)、松平忠吉(徳川家康第4子)の生母西郷の局の菩提寺。家康公没後は2代将軍秀忠公が母の菩提寺を盛り立て寛永5年(1628)、大伽藍を建て、大法要を営み、この法要に勅使が派遣され、西郷の局は従一位を追贈され、「宝台院殿一品大夫人」と戒名が改められました。また、寺名も金米山宝台院龍泉寺と「宝台院」が加わりました。 そしてこの時、江戸増上寺、駿府宝台院は徳川家の菩提寺となり、江戸城入りの時は十万石の格式を与えられ駿河国の触頭(ふれがしら)となりました。
(大政奉還から明治維新にかけての旧跡)
将軍徳川慶喜は将軍職を返上し、恭順の意を表して、上野から水戸に移って謹慎していましたが,徳川家が駿府に移されることが決まると身柄を駿府に移しました。慶応4年(1868)7月19日に水戸を出発、銚子から旧幕府の軍艦・蟠竜丸(ばんりゅうまる)に乗船、7月23日清水港に上陸、その日の夕方宝台院に入りました。清水港からは護衛に松岡萬(よろず)の率いる精鋭隊々士50人が付きました。また、新門辰五郎も駿府に来て、宝台院近くの常光寺に住みました。明治2年(1869)9月28日に謹慎が解かれ、10月5日に代官屋敷(現・浮月楼)に移るまでの1年2ヶ月間、宝台院で起居され謹慎の日々を送りました。
(徳川慶喜公伝)
【寺町】
「寺町」の町名は、徳川家康公が駿府城下町を整備した際、駿府周辺の寺々をこの地に集合させたことに由来します。当時西国の勢力を強く意識していたので、城下町のはずれに寺を集めることで、敵の
攻撃に備え、有事の際には寺の建物や墓石などを
軍事上に利用しようとした考えがあったと言われています。当時は、現在の新通り1丁目から常磐公園に掛けて、駿河町通りをはさんだ常磐公園側に13の寺院、市役所側には町屋が並んでいました。昭和20年の戦災後、善然寺、感応寺を除くすべての寺院が沓谷の花園霊苑などに移転しました。
(写真右上:寺町;町名碑)
【両替町】
町名は、慶長11年(1607)この地に「銀座」設けられ、徳川家康公が駿府城に入った際に,駿府城の蓄財としての銀貨を鋳造する目的で設置されました。金・銀の両替商が置かれたことに由来します。当時の両替町6ヶ町の内2丁目に「座役所」が、1~4丁目に銀座役人の役宅があったとされています。駿府の銀座は、慶長6年(1601)に 京都・伏見に設けられたのに次いで2番目に設置されました。慶長17年(1612)には江戸(現在の銀座)へ移され、当時の町名は「新両替町」と呼ばれていました。東京銀座の
ルーツは駿府の両替町です。
【札ノ辻町】
「ふだのつじまち」の町名は、江戸時代この地に「高札場」があったことに由来します。「高札場」とは幕府の禁制、法令を庶民に徹底させるため、各地域の要所に設置された掲示板です。札の辻の高札場は、現在の七間町と呉服町通りが交差する駿府城寄りの道路中央に立てられていました。(明治7年廃止)札の辻界隈は当時から商家が軒を連ね、多くの人々で賑わっていたようです。昭和20年(1945)札の辻町は七間町、呉服町、両替町の一部となりましたが「札の辻」の地名は今も市民に親しまれています。地内には駿府城御用達のお菓子屋を始め、古い由緒ある店がありました。
雨がのこる清水山公園をスタートし、約4㎞・約3時間の町名碑巡りでした。また、今回は大政奉還から150年を記念して、旧跡3か所も同時にご案内しました。
現在、静岡市内には32か所の町名碑が設置されています。今回はパート1として下横田町から札ノ辻町までの19か所の町名碑を巡りました。次回11月23日(木・祝)のパート2では残り13か所を巡ります。次回のご参加もお待ちしています。