観光ボランティアガイド 駿府ウエイブ

江 尻 宿

一九は、膝栗毛の中で、馬子と旅人のやりとりが面白く、気が付くと府中宿についていた.

 

 

広重は、東海道五十三次の江尻宿の風景を、日本平であろうか高所から、清見潟、三保半島、駿河湾の景色を描いています。

 

 

江尻 三保遠望

副題に「三保遠望」とあり三保の松原を中継に配し、手前には清水湊の集落の屋根を描き、湊に停泊中の船や入港してくる帆船を描く。高所から俯瞰したパノラマ的な風景で、船の白い帆が次第に小さくなり、駿河湾の水平線の彼方へと視線が移動していく。広々した駿河湾の景色を描いて「保永堂版」唯一の純粋風景画となっている。

 

 

古地図で巡る駿州の旅【江尻宿編】はこちら。

 

江戸時代の江尻宿の様子

 

品川から数えて18番目の宿場町です。戸数1,340軒、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒、人口6,498人、宿の町並み長さ約1.420メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》の宿場でした。「江尻」とは巴川の尻(下流)を示し、巴川が作る砂洲上にできた宿でした。巴川河口を利用した清水湊には、海上運送業者の廻船問屋が集まり、大坂より木綿、油、綿、酢、醤油などの荷物を積込み商業活動をしていました。駿府町奉行が支配するお蔵が18棟も立ち並ぶなど、江戸へ物資を運ぶ重要な港として活気に満ちていました。元禄期には船手奉行と軍船が置かれ、甲州年貢米の輸送や西国の中継も果たし駿府の外港としての役割も担いました。産物は大根、木綿、甘藷。戦国時代には甲斐武田氏が駿河支配の拠点とし、江尻城や清水袋城を築き、鍛治町、鋳物師町、紺屋町などが配置された城下町も作られて、繁栄していました。

 

江戸時代を彷彿とさせる今の江尻は