岡 部 宿
一九は、膝栗毛の中で、大井川の川留めのため足止めとなり岡部に宿泊すること、
川留めが明け出立する様子を書いています。
広重は、東海道五十三次の岡部宿の風景を、東海道屈指の難所・宇津ノ谷の集落を描いています。
岡部 宇都之山
豊臣秀吉によって開かれたという東海道宇津ノ谷の峠道を描く。街道の両側から迫ってくる山の急斜面と、段差をつけて流れ落ちる岡部川の急流が、奥深い山中の雰囲気を醸し出す。薪や駕籠を担いだ3人の農夫が奥に行くほど小さく描かれ、最後尾の人物は胸から下が隠れており、急な坂道を越えて向かってくる遠近感が表現される。
古地図で巡る駿州の旅【岡部宿編】はこちら。
江戸時代の岡部宿の様子
品川から数えて21番目の宿場町です。戸数487軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠27軒、人口2,322人、宿の町並み長さ約1470メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》宇津ノ谷峠の西に位置する比較的小さな宿場町でした。丸子。藤枝宿より1年ほど遅れて誕生しました。男は往還日雇稼・薪拵、女は木綿を織った。
宿場町全体における旅籠の割合が、最も低かったと言われている岡部宿は、やがて東海道の往来の増加とともに、人馬継立が不足するようになり、後に加宿として「内谷」が加わりました。
その中で、岡部宿を代表する旅籠となっていたのが、2度の火災を受け1836年再建の『大旅籠 柏屋』です。東に宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)の宿の指定を受けました。
宇津ノ谷峠
丸子宿と岡部宿を結ぶ宇津ノ谷峠は、東海道屈指の難所でした。宇津ノ谷の集落をまっすぐに旧東海道が貫き、屋号を掲げた家並みが往時の風景を思い起こさせます。7世紀からの道であるといわれる蔦の細道をはじめ、小田原攻めに向かう豊臣秀吉が整備し、江戸時代には参勤交代の大名をはじめ古くから多くの人が行き交ってきた場所です。
江戸時代を彷彿とさせる今の宇津ノ谷峠と岡部は