興 津 宿
一九は膝栗毛の中で、きな粉団子と思い注文した団子が米ぬか団子と知り、肩を落として次の江尻宿へ向かいます。
広重は、東海道五十三次の興津宿の風景を徒歩渡りの興津川を描いています。
興津 興津川
興津宿の東を流れる興津川の川越しの様子を描く。興津川は通常徒渡りで、冬季のみ橋渡しであった。川越しをするのは異色の相撲取り2人である。刀を腰に差しており大名抱えの力士と思われる。力士の重さに顔をしかめる駕籠かきたちの表情が面白い。遠景には駿河湾と、名勝として知られた清見潟が描かれる。
古地図で巡る駿州の旅【興津宿編】はこちら。
江戸時代の興津宿の様子
品川から数えて17番目の宿場町です。戸数316軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人口1,668人、宿の町並み長さ約1.150メートル《東海道宿村大概帳・(天保14年・1844)》のこじんまりとした宿場でした。産物は紙・大根・鯉・甘藷。興津宿周辺は丘陵が海岸に接近する地形から、東西交通を監視・遮断するには好立地で、古代には東方からの不審者侵入防止のため清見関が置かれ、その関の守護のため設けられたのが清見寺と言われ、室町時代は足利尊氏の帰依を受け、戦国時代には一時荒れ寺となりましたが、今川義元の軍師・太原雪斎が再興し、江戸時代には清見潟の風光明媚な風景を眼下に見ることができることから朝鮮通信使の宿泊場所とされました。興津宿は清見寺の門前町として発展しました。身延、甲府へ通ずる甲州往還(身延街道)が分岐する交通の要衝であり、参詣の道、塩の道としての機能も持っていました。
江戸時代を彷彿とさせる今の興津は